有馬頼寧パーソナルデーター

ハイソな華族の若様で、政治家・農政学者・篤志家と、多彩多面な顔を持つ彼の星回りと人生をみてみましょう。

有馬頼寧 パーソナルデーター
1884(明治17)年12月17日 東京都日本橋(現中央区日本橋)出生時間不明



第1室 本人の部屋   ♐ ☀・☽(新月)
第2室 金銭所有の部屋 ♑ ♂・☿
第3室 幼年期の部屋  ♒
第4室 家庭の部屋   ♓
第5室 嗜好の部屋   ♈
第6室 健康勤務の部屋 ♉ ♆
第7室 契約の部屋   ♊ ♇・♄
第8室 授受の部屋   ♋ 
第9室 精神の部屋   ♌
第10室 社会の部屋   ♍ ♃
第11室 友人希望の部屋 ♎ ♅・
第12室 障害溶解の部屋 ♏ ♀

♐にある☀と☽(第1室・本人の部屋)がコンジャンクション。新月生まれの人だというのがわかりますね。対面は♊。ここに♇と♄(第7室・契約の部屋)。交渉事などには、特有の才を持つでしょう。人を引き付ける明るさがあるので、自力でも社会的地位に就くことも可能ですが、ここに家柄の良さも加味されるので、人生最初からハイレベルで行ける人ではあります。
良いことだらけに見えますが、☀/☽=♄がオポジションなので、自由な生き方に拘束がかかることもあり。状況によっては。周りが振り回される可能性もあり。
♊♇は第11室(友人希望の部屋)♅と、良き風を送り込む関係。Rとはいえ、♎には人気運☊も入っています。実際、有馬頼寧は様々なジャンルの職業。当時は今よりも身分的区分けがはっきりしていた時代ですが、それも超えて交流します、人脈ビジネス家ともいえるし、慈善活動も進んで行う人でした。
第2室(金銭所有の部屋)は、お堅い成功を好む♑に、♂と☿コンビ。これが第6室(健康勤務の部屋)♉の♆。第10室(社会の部屋)♍の♃と、土星座の調和を形成。さらに第12室(障害溶解の部屋)は、♏♀。唯一水星座にある天体が、♀です。お金に頓着なく、話の分かる伯爵ならば、女性にもてないわけはない。
彼の日記等をたどると、華やかすぎる恋愛事情を物語っている下りはあり、女性関係のことで、奥様が悩まれたと推察できます。それもまた、彼の魅力の一つなのでしょう。また♏♀は、♐の活動力に、奉仕活動や慈善事業への理解を示す性質を加味する効果ももたらしていますし、土星座同士の調和が加わっているので、社会還元できたのかもしれません。競馬と関わり、世に残る一大イベント有馬記念を生み出したのも、膣星座の調和が、一役買っていると見ました。

有馬頼寧略年表 ウィキその他検索

1884(明治17)年12月17日東京府東京市(現中央区日本橋)伯爵有馬頼萬の長男とし
て、誕生。母は岩倉具視の五女恒子。
1888(明治21)年頃 実家が火災に遭い、日本橋区から浅草区橋場に転居。
1890(明治23)年 学習院初等科入学
1896(明治29)年 学習院中等科へ進学(現学習院高等科)教師の家に下宿。
1903(明治36)年 在学中 北白川宮能久親王の次女貞子と結婚。旧制学習院高等科に進学する。
1906(明治39)年 帝国大学農科(現東大農学部)入学。
1910(明治43)年 大学を卒業。1年2か月の欧州外遊。
1911(明治44)年 帰国後、農商務省に入省。農政に関わる。
1918(大正7)年 東京帝国大学農科大学付属農業教員養成所の講師(後の助教授)となり、母校で教鞭をとる。
1919(大正8)年 邸宅の敷地内に、労働者のための夜間学校「信愛学校」を開設。
1924(大正13)年5月第15回衆議院議員選挙に出馬。立憲政友会・福岡12区から当選。1927(昭和2)年4月まで。
1926(大正15・昭和元年)8月貴族院議員。1937(昭和12)年9月まで。
1929(昭和4)年6月 農政務次官。1930年(昭和5)4月まで。
1930(昭和5)年4月 農業組合信用金庫理事長。1934(昭和9)年6月まで。
1932(昭和7)年6月 斎藤実内閣・農林大臣就任。936年(昭和11)年1月まで。
1936(昭和11)年 プロ野球東京セネタース・大洋軍(西鉄軍)創設にかかわる。
12月 近衛文麿を首班とする新党結成を話し合う「荻窪会談」を自宅で開く。1937(昭和12)年1月まで。
1937(昭和12)年6月 第一次近衛内閣の農林大臣就任。
1940(昭和15)年10月 大政翼賛会初代事務局就任。
1941(昭和16)年 大政翼賛会改組により、辞任。政界を離れる。
1945(昭和20)年12月2日連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)による命令で逮捕。A級戦犯として巣鴨プリズンに拘置されるが、無罪となる。公職追放となり、引退生活を送る。
1955(昭和30)年4月農林省の招請で、日本中央競馬会第2代目理事。1957(昭和32)年1月まで。

有馬頼寧惑星history☽ 年齢域0~7歳 1884(明治17)~1891(明治24)年

自由民権運動が盛んとなる1884(明治17)年12月17日。東京の日本橋で、有馬頼寧は産声を上げます。父は旧筑後国久留米藩主有馬家14代当主有馬頼萬伯爵。母は岩倉具視の五女恒子(のちに寛子と改名)。
実にハイソな家柄の第二子長男として生まれましたが、母の恒子は産後間もなく実家に戻されます。離婚となった後、下野宇都宮藩7代目当主戸田忠友(最後の当主)の長女豊子と、父は再婚。姉の偵子と頼寧は、邸宅の敷地に住む嫡祖母の棟で養育されたのでした。

頼寧が4歳くらいの時、日本橋の本宅が火災に遭います。時勢的には市制・町村制が布かれ、大日本帝国憲法が発布となった頃で、幼年期の後半、浅草区橋場に移り住みました。
下町色豊かでありながら、風光明媚なこの地域は、江戸時代の頃から大名の別宅があり、明治の元勲たちも、好んで居を構えたのです。三条実美公の邸宅には、病身の彼を見舞うため、明治天皇も訪れた隅田川沿いの街で、頼寧は下町の子どもたちと遊び、☽年齢域が仕上がりを迎える1890(明治23)年。学習院初等科へ入学しました。
この年は「教育勅語」が、発布されます。 
明治天皇が、全国民に語りかけた教育の基本方針とする向きがありますが、当初、これを一番読んでほしかった層は、大学に進学した後に、様々な専門分野で働くエリート層でした。
当時は幕末期以上に、親世代が受けてきた伝統的な教育と違う、欧米列強の教育(社会主義)が浸透。欧米列強と対等に立たないと、他のアジア諸国同様、日本も植民地になってしまう危機感と、富国強兵の空気も手伝って、新時代の教育に染まる学生たちは、先代までが培ってきた伝統的な日本文化を、恥じとし、遠ざける傾向が強かったのです。
新時代に生きるため、過去の時代をすべて否定する若者たち。その姿に明治天皇は、心を痛め、良き日本の文化や歴史の衰退を危惧なさり、発布されたのが教育勅語でした。
ところが、肝心なエリート層は、「あれは庶民の学ぶべきもので、我々は死に物狂いで西洋に学ばないといけない」と受け止め、ジャン・ジャックルソーの「進歩主義」や「社会主義」を選んだのでした。
このような時代に、華族の子息として、有馬頼寧は学習院に通い始めたのです。

有馬頼寧惑星history ☿年齢域 7~15歳 1891(明治24)~1899(明治32)年

開国後、明治新政府は、富国強兵政策を実施。教育だけでなく、金融、税制といった社会システムをすべて変え、さらに全国で産業、工業化を推し進めたのです。今までのように、生まれた場所で、農業や漁業に就く人生だけでなく、都市に出て工業に従事するという、新たな生き方を選べるようにもなったのですが、急速な工業化は、劣悪な環境で働く労働者の健康被害を起こします。足尾銅山事件は、その代表的な事例でしょう。
急速に人口が増えた地域では、治安やインフラといった環境整備が追い付かなくなり、こちらも問題となりました。
頼寧の☿年齢域は、このような社会背景と、日清戦争が重なってきます。
誕生から日の浅い小国と、歴史のある大国が戦争をすれば、答えは決まっている。そう思っていた世界を裏切り、日清戦争は日本が勝ちました。日本中が勝利に沸きますが、下関条約直後の三国干渉によって、日本政府は約束された賠償の一部を、諦めざるをえなくなったのです。詳しい事情を知らない日本国民は、政府の対応への不満を募らせました。(日清戦争・日露戦争に関しては、東郷平八郎や陸奥宗光の回その他で触れているため、詳しいことは割愛します)
1896(明治29)年。戦後の騒然とした空気が、日本を包む中、初等科を卒業した頼寧少年は、学習院中等科(現学習院高等科)へ進学。教師の家に下宿します。

有馬頼寧惑星history ☀年齢域 24~34歳 1908(明治41)~1918(大正7)年

1910(明治43)年7月。東京帝国大学農科を卒業した頼寧は、約1年2か月ほど欧州外遊した後、農務省へ入省。明治の終わりに社会人としてのスタートを切りました
頼寧の☀年齢域が始まった頃の時代的背景を、一つ記しておきましょう。
それは1890(明治23)年。彼が学習院初等科へ入学した年(☽年齢期の終わり)に、発布された「教育勅語」についてです。
かなり雑な表現ですが、「教育勅語」は、日本の将来に役立とうと、西洋の学問に傾倒するエリート層の若者たちを見て、日本の良き伝統と文化を、忘れないでほしい、誇りを持ってほしいとする、明治天皇のお考えを示したものでした。そのため、発布当初は国民に強制する法令ではなかったのです。当然、大臣の副署も入れませんでした。
それが1907(明治40)年頃から、地方行政官による各学校の視察と教育指導に当たる「視学制度」が始まり、学級判定のモデル教材として、「教育勅語」の暗記暗唱させたのです。 
「教育勅語」暗記暗唱の出来が、学級評価に結び付くようになって、様相が変わり 童生徒に全国の学校に、「教育勅語」の礼拝と暗記を定めたのでした。暗記暗唱が得意な子はともかく、苦手な子、発音がハッキリしない児童生徒に対し、罵声暴言、体罰を含む強制的な指導が行わるケースも発生。戦前まで続いたのです。

国民に「教育勅語」の強制を敷いたのは、文部省でした。
伊藤博文暗殺に、日韓併合条約の締結。日本の関税自主権の回復と、時代を締めくくるように、明治末期は大事が続きます。その中で進んだ学制改革は、地味な部分ですが、今の時代に至るまで、「教育勅語」のイメージを悪くさせた要因の一つであると、筆者は思います。

話を有馬頼寧に戻しましょう。時代が明治から大正へ変わり、政治も文化もデモクラシーの熱冷めやらぬ中、頼寧農務省に勤めます。この時期は目立った活動はありませんが、仕事を覚えながら、さらに人脈を広げていったのでしょう。
1914(大正3)年には、第一次世界大戦が勃発。戦地となった欧州は、物価高騰や生産業に打撃が生じ、安定して品物を供給できる日本から、物を買うようになります。そのおかげで輸出が伸び、国内は空前の好景気を迎えました。しかし、理由が戦争なので、終戦争の頃には、風向きが変わります。
☀年齢期と♂年齢域が交差する1918(大正7年)年、頼寧は帝国大学農科大学付属農業教員養成所で、講師となりました。

有馬頼寧惑星history ♂年齢域 34~45歳 1918(大正7)~1929(昭和4)年

立場もできてきたのもあるのか、♂年齢域に入ると、頼寧の社会活動が本格化します。
1919(大正8)年橋場にある邸宅の敷地内に、労働者のための夜間学校「信愛学院」を創設。入学条件は、昼間働いていることだけ。15~40歳という、幅広い年代の生徒を受け入れました。
N♍の♃に対して、T♅が魚座でオポジション。やりたいことの拡張、しかも♍なら勉学が加味されるし、タロットでいえば「隠者」。私塾や学校を開く、携わるのはありと読めます。Tの社会天体は、♃♇が♋。♄♆が♌。そこから離れて♅が♓を進むので、これまでの空気と状況が変わる、引き締め傾向な気運。実際、戦後不況やシベリア出兵問題などが起きてくるので、世相的には世知辛くなってゆくでしょう。
1921(大正10)年中華民国で、中国共産党が結党。日本では、東京駅で平民宰相と呼ばれた原敬が暗殺が起きます。翌1922(大正11)年には、賀川豊彦が日本農民組合(現全国日本農民組合連合会)を設立。賀川豊彦と有馬頼寧の交流が、いつからかは不明ですが、日本農民組合創設と、全国平水社の設立に頼寧が関わっているのを見ると、既に交流を持っていたとみていいでしょう。尚、この年の12月には、ソビエト社会主義共和国連邦が誕生します。

1923(大正12)年9月1日。死者10万人超といわれる関東大震災が発生。日本の首都は、壊滅的な打撃を受けました。焼き出された人々のために、有馬頼寧は右も左も関係なく、震災義捐のために活動します。「伯爵でありながら、偉ぶらない人でした。貧乏人とでも、気軽に口をきいてくれるんですよ。関東大震災でみんな焼け出された時、すぐ炊き出しをしてくれて、おにぎりなんかを出して、被災者に配ってくれたんです。人情があって温かい人でした」という逸話を見ると、困った人を見たらほっておけない慈善家であったのはわかります。
関東大震災の日と有馬頼寧のNホロスコープを重ねると、当然のようにT☀は♍。さらに♀と♂が♍にあり、頼寧のN♃とコンジャンクション。慈愛やパブリックな救済も、♍の領分。T☽は♉を進み、これが頼寧のN♆を刺激。いくら裕福な家でも。自分たちも被災しているのです。それでも自宅に同情園乳児部を設けて、震災で困窮する乳幼児たちの面倒を看たりできたのは、優しさもありますが、星の後押しもあったのでしょう。彼のN♀と手を取るように、♏に♃が溶け込んでいるのも、その証のように見えます。

華族でありながら、博愛精神を持ち合わせていた頼寧。第二次護憲運動の波に乗り、1924(大正13)年。立憲政友会から、第15回衆議院議員選挙に出馬しました。住居のある東京地区か、福岡2区(旧久留米藩繋がり)かと、候補地を考えた末、福岡12区から立候補。見事に当選します。
♃は♐で、彼のN☀☽を刺激しますから、政治家デビューの後押しをしていますね。
社会活動と慈善活動に熱心な有馬頼寧。気さくで話しやすい性格から、女性関係も広かったのです。衆議院議員選挙活動中、博多の芸者舟子(福田次恵)を落籍。これを上京させて有馬邸の近くに、別邸を構えて住まわせた時は、選挙活動中ということもあり、一般民衆はもちろん、身近な親族からも非難の声が上がりました。
以前に別の愛人との仲を、かなり強引に裂かれて苦悩した経験もあって、頼寧は非難の声に耳を傾けることはなかったようです。
第一次世界大戦終戦による経済難と、震災の打撃がまだ残る日本は。昭和に入って間もない1927(昭和2)年。金融恐慌が起きて騒然となりましたが、恋多き頼寧にとっても、父有馬頼萬の死去という、大きな変化がありました。
これに伴い、旧久留米藩有馬家第15代当主となり、伯爵(こちらは二代目)を叙爵。これによって、衆議院議員失職となります。翌1928(昭和3)年の秋、有馬一家は、長く住んだ浅草の橋場から、住まいを荻窪に移しました。

有馬頼寧惑星history ♃年齢域 45~57歳 1929(昭和4)~1941(昭和16)年

頼寧の♂年齢域と、♃年齢域が重なる1929(昭和4)年。これは華族の互選によって起きた事なのですが、つい先日まで「貴族院議員はなくすべき」と言っていた頼寧。なんとその貴族院議員の席に、農政務次官として座ることになりました。
この年、T♐に♃が入り、特に3月ごろ、頼寧の☀と☽を刺激。♄は♏に入室したばかり。時代的には、世界恐慌が起こり、日本の東北地方は、飢饉が重なって娘を売りに出さないと、家族が飢え死にするほど、困窮する程厳しい状況に陥ります。T♅は、♓。♇は♋と、♌の♆を除いて、外惑星は水星座の中で、こっくりと進むだけに、人の心を左右する大きな変革が始まる要素はあります。

翌1930年(昭和5)4月年4月まで、農政と関わった有馬頼寧。その後は、農業組合信用金庫理事長を2年ほど勤めました。拡張の♃期らしく、仕事も人脈も拡張期で、1931(昭和6)年には、日本卓球会(後の日本卓球協会)の総裁となり、日本卓球の基礎をつくのに貢献。
1932(昭和7)年6月。五・一五事件後の、30代内閣総理大臣斎藤実の内閣で、農林政務次官に就任。翌年には産業組合中央金庫(現・農林中央金庫)の理事長となっています。
二・二六事件が起きた1936年(昭和11)。日本職業野球連盟(現プロ野球)が結成されました。経済難や社会不安はありましたが、大正・昭和初期の人はたくましく、庶民の娯楽も実は盛んだったのです。それだけに文化やスポーツも、活気がありました。
野球を盛り上げるためには、東京巨人軍に対抗する「首都圏内のライバル球団」が必要だ。そう考えたオーナーの正力松太郎は、ライバル球団創設を、有馬頼寧に相談。
すると顔は広く、楽しいことは好きな有馬は西武鉄道(現西武鉄道株式会社)に話を回しました。こうしてプロ野球東京セネタース(東京野球協会)の創設に関わり、オーナーとなったのです。

産業組合中央会(現一般社団法人全国農業組合中央会)会頭に就任する一方で、政治的には、自宅に永井柳太郎・林銑十郎・結城豊太郎・中島知久平といった面々を招いて、近衛文麿を首班とした新党結成を話し合う「荻窪会談」を開きます。
その甲斐と、生まれも育ちも良く、大衆の人気もある近衛文麿は、1937(昭和12)年6月4日。第34代総理大臣となりました。初代総理大臣伊藤博文に次ぐ、史上2番目の若さの45歳で、近衛は議会制政治のトップに立ちます。
組閣では内閣書記長(現・内閣官房長官に近い立ち位置)を設け、昭和研究会の会員で、国民同盟の衆議院議員風見章を任命(風見は元新聞記者で共産主義者)。外務大臣に広田弘毅、軍部大臣に杉山元(陸軍)と、米内光政(海軍)が留任。その他の人的配置も、おおむね財界から高評価が付きました。52歳の有馬頼寧は農林大臣として入閣します。
政財界だけでなく、軍部にも顔が広くて、五摂家筆頭の近衛家当主の内閣誕生は、要人暗殺が起こる社会不安や、経済不況を払拭したかった庶民も大歓迎。新内閣の期待値は高かったのです。
内閣スタートの際「国内各論の融和を図る」事を目指した近衛は、彼なりの平和論と正義感。軍部と内閣の食い違いをなくそうとする思いから、二・二六事件の逮捕・服役者の大赦を強く求めました。これに周囲はドン引き、最後の元老西園寺が却下します。
それ以外はフレッシュ感のある組閣でしたが、就任から一月後の7月7日。北京郊外の盧溝橋付近で、日本軍と中国軍による、小規模な武力衝突が発生。議会は事件を大きくしない不拡大方針を主張する、参謀本部の石原莞爾少将に同意しますが、話が一転二転するうち、政府が派兵の主導権を握る方がいいと、派兵を閣議決定。
近衛文麿は 財界の有力者や、新聞関係者を首相官邸に集めて、内地の三個師団を派兵することを発表。さらに「戦争やろうぜ!」と、盛り上げ、国内の世論を煽動したのです。
当時の日本は、「日本が強力な一撃を加えれば、中国はすぐに屈服する」という、楽観的な考えが主流でした。そのため文麿も甘く考えていたのです。
和平工作も行われますが、進まないまま小競り合いだった戦は、第二次上海事変を機に、日中戦争へと変貌しました。
「支那事変を解決するには、日本の国内体制を資本主義から、社会主義へと意向させる必要がある」と、昭和研究会の三木清の提案があり、尾崎秀実は、言葉巧みに戦火拡大・延長論を展開した結果、この戦争は、1945年8月15日終戦まで続いたのです。

1938年(昭和13年)日中戦争は終わるどころか、拡大傾向にある4月。「国家総動員法」「電力国家管理法」が可決。戦争の際、国が日本人の人的、物的資源を、すべて自由にできるという内容で、これを聞いた多くの議員は驚き、反対の意を示したため、廃案寸前に持ち込まれます。しかし、学生時代に「自由・平等・博愛」を学び、財産は私有よりも共有し、富のあるなし、努力に関わらず、全員一律の分配こそが平等である(ただし、ここには無言の強制徴用がセットされている)という考えを持った近衛然り、有馬頼寧や昭和研究会の面々は、聞く耳を持つことはありませんでした。
末次信正内務大臣や、風見内務書記官に有馬頼寧(近衛のブレーン)は、ソ連の第1次五か年計画を模倣にしたと言われている「国家総動員法」を、日本に定着させるため、衆議院の解散と、近衛を中心とした新党発足をチラつかせます。
選挙を行えば、メディア受け良く、国民的に人気がある近衛に勝てない。そう踏んだ立憲政友会と立憲民政党議員。他党の議員たちは、「国家総動員法」の賛成に回り、法案は成立したのでした。翌5月に施行。経済の戦時体制を敷いたのです。しかし、新政権を作くるには至らず、近衛内閣は、1939(昭和14年)1月5日総辞職。
翌1940年(昭和15)年7月22日第二次近衛内閣を迎えるまでの、ざっくり1年半の間で、総理は三人ほど交代となりました。その間も日中戦争は拡大。日本はアメリカ、イギリスとの関係が悪化してゆきます。(ここには、アメリカ側の事情と、イギリスの思惑も背景にあり)
「ドイツ・イタリアとの同盟推進」「ソ連との不可侵条約の締結」「東亜新秩序の建設推進」といった方針を決めた近衛文麿は、新たに松岡洋右次期外務大臣。吉田善吾海軍大臣。東条英機次期陸軍大臣を招いて、第二次内閣をスタート。
数日後に基本国策要網を閣議決定しました。東亜新秩序の推進として、欧米列強の植民地となっている東南アジアの国々を含む「大東亜共栄圏」構想を打ち出します。
新体制運動の下、8月には全政党の解党が進み、日本の議会制政治は死滅。「バスに乗り遅れるな!」のキャッチコピーと共に、彼らの行き場として用意されたのが、同年10月に始動する政治結社「大政翼賛会」でした。
有馬頼寧は、♃年齢域を締めくくるこの年。軍部を抑え、幅の広い国民的組織の結成を目指した「大政翼賛会」の創設に向けて動いたのです。
初代事務局長に就任しますが、軍部や内務官僚、国体論を展開する右翼とは、相容れることはありませんでした。

有馬頼寧惑星history ♄年齢域 57~70歳 1941(昭和16)~1954(昭和29)年

♃年齢域と♄年齢期が交差する1941(昭和16)年3月。「大政翼賛会」の改組により、頼寧は事務局長の席を退くと同時に、政界からも離れました。
N第6室(健康勤務の部屋)が、♉♆。コンジャンクションする距離に、第7室(契約の部屋)♊♇を持つ有馬頼寧。この♉にT♄・♃・♅という三連星がかぶってくるのが、1941年。♅は22度なので、数年前から入室。今まではビリヤードの如く、人脈も転がり人がっていましたが、急速な重さがかかり、風向きが変わるのは、無理ないかもしれません。
有馬のN♄は♊にありますから、1944年頃までT♄がグッと抑えこむように影響していると見てもいいでしょう。元々♐の☀と☽なので、考えるよりも行動が先。という感じはある有馬ですが、この時期は、戦争という要因がなくても、周りから離れて動く気にならない可能性はあります。

有馬頼寧が抜けた後、「大政翼賛会」は、戦後まで、国民を管理する組織に変貌してゆきました。4月に日ソ中立条約が結ばれ、7月18日をもって、第二次近衛内閣は解散。
第三次近衛内閣をスタートさせます。戦争に向けて煽った自覚がなかった近衛は、この段階で、慌てて戦争回避に動きますが、10月2日。ルーズベルト大統領は、「日米首脳会談の拒否」を正式に通達してきました。(この頃、ドイツの攻撃に悩むイギリスは、アメリカに参戦してほしかったのです。不況風が強いアメリカは、戦争で経済効果を出したい所ですが、自国民が他国から攻撃されない限り、兵を出さない。自国から進んで戦争はしない。ルーズベルト大統領は、それを公約に当選しているため、参戦のためには、仕掛けてくる国が必要でした。その役に選ばれたのが日本だったのです)
メディアはカチコミなムードで、人々の気持ちを煽り、世の中は日中戦争の長期化が、戦争に対して、緊張感を萎えさせ、アメリカと戦争して勝てばうまくいくかもしれない。そんな安易な感覚を生み出した風潮は、あったのです。

10月14日。近衛は中国からの撤兵を、陸軍大臣の東条英機中将に即しますが、「陸軍の総意」として拒絶されますが、この日はもう一つ、事件が起きます。それは尾崎秀実と西園寺公一が逮捕された事でした。
二人は第一次近衛内閣の頃から、深く政策に携わっていたのです。  
西園寺は公望公の孫。オックスフォード大学に留学中、マルクス主義に染まり、帰国後、コネではいれる宮内庁への就職を拒絶。様々な経緯で尾崎秀実と知己となり、共に近衛内閣に関わったのでした。
尾崎は元朝日新聞の社員で、共産党員という経歴の持ち主。同時にリヒャルド・ゾルゲが主導するソ連諜報組織、ゾルゲ諜報団の団員だった事が、逮捕によって明らかになったのです。国の中枢にソ連のスパイがいたことは、日本を震撼させる事態でした。
戦争回避は不可能、信頼していた近衛の側近の逮捕。近衛内閣は開戦直前に、東條英機陸軍大臣を、総理の椅子に据えて政界から逃げたのでした。

12月には真珠湾攻撃をきっかけに、日本はアメリカだけでなく、世界各国を相手に、大東亜戦争を起こしたのでした。
♄年齢域に入ったことも手伝っているのか、この時期の有馬頼寧は政界から退いているため、大東亜戦争に携わっていません。(大東亜戦争については、近衛文麿・東條英機・鈴木貫太郎の回をご参照ください。)
再び有馬頼寧の名が世に出てくるのは、1945(昭和20)年終戦後12月2日でした。連合国軍最高司令官総司令部は、第一次近衛内閣で農相や大蔵省顧問を勤めた有馬頼寧を、第三次逮捕者59名のうちの一人として逮捕するよう、日本政府に命令を下したのです。
A級戦犯となり、巣鴨プリズンに拘置された有馬ですが、1946(昭和21)年8月無罪と認められ釈放。公職追放を経て、その後は引退生活を送ることになりました。公職追放は一時的なもので、解除後は、何かと声はかかったようです。
その声に乗らなかった有馬頼寧ですが、1951(昭和26)年ある相談事が舞い込みました。 
中央線(現JR)荻窪駅と吉祥寺駅の間にできる駅(現西荻窪駅)の名前が、なかなか決まらず困り果て、駅を作る用地購入に寄付をした有馬の元を尋ねてきたのです。
「西荻窪でどうか」と言ったことがきっかけで、今は当たり前に存在している西荻窪駅の名前が決まったのでした。

有馬頼寧惑星history ♅年齢域 70~84歳 1954(昭和29)~1957(昭和32)年

1955(昭和30)年。農林省に招請された有馬頼寧。安田伊左衛門の後任として、日本中央競馬会2代理事長に就任することになります。ここではじめて、有馬と競馬がつながるのですが、70までの人生の中で、直接、携わった分野ではなかったのです。
人が楽しむことを企画するのが好きとか、動いているのが好きという気質もあると思いますが、畑違いの分野で、有馬頼寧。鮮やかなほど才能を発揮しました。
戦後のにおいもまだ濃い時代。各地の競馬場、非常に荒れ果てていて、復旧作業が必要でした。それには資金も必要です。
そこで有馬は、競馬の売り上げ国庫納付を免除して、復旧・復興財源に充てるための「有馬特殊法」を立案。施行するため、政治経験を活かして動き出します。これによって1956(昭和31)年から1960(昭和35)年の5年間。競馬場施設を近代化するため、年2回の臨時競馬を開催。有益金の一部または全額を、国庫金として納付する義務が免除されました。
JRAの競馬国際協定加入を承認するように、英国ジョッキークラブへ働きかけ、海外の競馬会議に参加できるよう、門戸を開いたのは、政治的手腕と有馬頼寧が華族出身であったことも一役買っていると思います。
サービスセンターの設置や、レースの実況放送の開始。親子連れが楽しめるように、託児所や遊園地等を、競馬場内に設置する大改革を行いました。
♅年齢域。改革革命というと、破壊的なイメージが強くなりますが、ひっくり返したおもちゃ箱のように、どんどん案を出して行く有馬。
社会的には「賭け事は害悪」=競馬は害悪というイメージを、塗り替えてゆく最たる案が、プロ野球のオールスターゲーム同様、ファン投票で選出された馬たちが競い合う「オールスターレース」というものでした。
野球球団のオーナーならではの発想ですが、これを「暮れの中山競馬場で、日本ダービーに匹敵する華やかなレースとして開催する」と聞いた中山競馬場の馬主や、関係者。中山競馬場には、暮れの中山大障害レースがありましたが、それを越す華やかなレース構想に、俄然やる気を出して、新スタンド竣工を機に企画が始動します。

秋の天皇賞を戦った古馬(現4歳以上)。クラシックレースを戦った4歳馬(現3歳)たちが、芝2600mを競い合うレース。しかも出馬はファンの投票で決まるとあって、話題を呼んだ新企画は、1956(昭和31)年「中山グランプリ」として開催されました。
出走馬前12頭。この時の優勝馬は、メイジヒカリ(4歳牝)
中山競馬場にはレース当日、普段の倍以上の観客が詰めかけたそうです。

1957(昭和32)年1月9日。有馬頼寧は、急性肺炎のため逝去しました。享年72歳
ほんの二、三週間前、初の中山グランプリがあったばかりなのに、一つの役目を完了して、冥府へ旅立った有馬頼寧。その功績を讃え、中山グランプリは、第2回目以降「有馬記念(第○○回グランプリ)」に改称。長い年月の間に、細かなルールが変わったり、出走距離もかわりましたが、昭和・平成・令和と、67年。
年末に中山競馬場で開催され続けています。オグリキャップにトウカイテイオー。ディープインパクトらの名は、競馬を知らなくても、聞いたことのある馬たちの名前ですが、いずれも、有馬記念の勝利を飾っています。

華族の子息として生まれ、時代的に社会主義や共産主義の影響を受けやすい教育を受け、
第一次近衛内閣では、困った事態を引き起こしますが、当時の彼らはそれが日本のため、後世のためになると思っていたのも事実です。
競馬に興味のない人まで、時として話題になる馬の名を知り、何気なく会話に出るのも、有馬頼寧が♅年齢域に、競馬の大改革をしてくれたことがあってのこと。これは後世に文化遺産を残してくれたと考えてもよいでしょう。
有馬頼寧。歴史の理解と、功績を讃える意味で、もう少し、スポットが当たっても良い人だと思います。