近衛文麿出生時ホロスコープ

1891年(明治24年)10月12日 東京市麴町区(現千代田区)生まれ(出生時間不明)

☀星座 ♎ 
☽星座 ♒ 3°17  (00:00 ♑26°24/23:59♒10°16)
未明~早朝なら♑。午前中以降♒ということになります。

第1室 本人の部屋  ♎ ☿・☀・♀
第2室 金銭所有の部屋 ♏ ♅
第3室 幼年期の部屋 ♐
第4室 家族の部屋  ♑
第5室 嗜好の部屋  ♒ ☽
第6室 健康勤務の部屋 ♓ ♃R
第7室 契約の部屋 ♈
第8室 授受の部屋 ♉ ☊R
第9室 精神の部屋 ♊ ♇R ♆R
第10室 社会の部屋 ♋
第11室 友人希望の部屋 ♌
第12室 障害溶解の部屋 ♍ ♂ ♄

東半球に星の一群。後はほぼ2か所に点在する星たち。スプレータイプ&風星座のトリンを持つホロスコープとみていいでしょう。出生時間不明のため、☽は微妙。夜が明けてなければ♑の可能性あり。☀♎+☽が♑なら、180㎝の長身はありかとは思います。理想は高く、野心家でもありますが、立ち居振る舞いはスマート。人当たりも良く、ギラギラした感じはありません。知的好奇心と、応用能力もありますが、それゆえに器用貧乏になったり、公平でいたいがゆえに、あっちにもこっちにも、理解を示したい傾向が強く、決断を迫られる場面では、優柔不断に観られてしまったり、周りをがっかりさせる可能性大。

第3室と第4室に星がないため、家族関係が読みづらいですが、第2室は、個人の経済と物との縁。第8室は、社会(配偶者の家族を含め)から回ってくる、経済と物との縁であり、ここにプラス傾向の星があると、運勢の担保にはなると考えてもいいでしょう。
 近衛文麿の第2室は、♏の♅。何かとこだわりを持ちますが、思わぬ問題もわきやすく、特に金銭はクールな対応が、必要物となりそう。第8室は、♉☊R。外部には受けがいいけど、家族とか、身の回りの人とは難しい問題が潜む傾向があり。これらは彼の出生と絡んでいるとみていいでしょう。

☽が第5ハウスなら、大衆人気を持つこと可。続く第6室は、ライフスタイルを観ますが、♓♃。信頼を得やすい性質なので、働くことで自分も周りも幸せになれる。この人なら、やってくれるかもしれないという、期待を抱かせる傾向を秘めています。

第10室の♇・♆と90度。社交好きで、交際の輪は広げられるし、人が話を聞くのですが、風星座の悲しいところか、その場のノリや、自己保身が強くなると、話の整合性に?が出てきやすくなるかも。第12室の♂と♄は、行こうとすれば、何かで強く足を止められる傾向を秘めているのと、年長者にうまくかわいがられると、それが厄除け代わりになる。ロマンを求める性格でもあるため、恋多き人生にはなりがち。それを援護するように、♎の☀♀コンビがあるので、はい、この方はモテます。なので、本人よりも恋人や奥様が、複雑な思いをする可能性は高いです。

では、そんな近衛文麿の星読みヒストリー。観てゆきましょう。

近衛文麿略年表(ウィキ、その複数資料を参照)

1891(明治24年)10月12日東京市麴町区(現・千代田区)にて誕生。同年10月20日実母衍、産塾熱により死亡。
1904(明治37年)父近衛篤麿の死亡に伴い、12歳で近衛家の家督を継ぐ。
1909(明治42年)学習院中等科卒業。第一高等学校(現東大教養部)英文科に進学。
1912(明治45年)第一高等学校卒業。この頃、毛利千代子と出会う。東京大学哲学科→京都帝国大学法学科に転入。(京都下鴨に移り住む)
1913(大正2年)政界を離れ、帰京した西園寺公望と、清風荘にて顔合わせ。
1914(大正3年)オスカー・ワイルドの「社会主義者の魂」を翻訳。毛利高範の次女千代子と結婚。挙式は宗忠神社。
1916(大正5年)貴族院議員となる。
1918(大正7年)雑誌「日本乃日本人」にて論文「米英本位の平和主義を排す」発表。
1819(大正8年)パリ講和会議。西園寺に同行。自らも提案に加わった人種差別撤廃提案が否決されたことから、白人への恨みを抱いたとされる。
1921(大正10年)日本青年館を設立、理事長となる。東亜同文会の副会長に就任。演説にて「統帥権によって
1926(大正15年)宮内庁宗秩寮審議会の審議委員となる。
1927(昭和2年)所属していた研究会を離脱。木戸幸一・徳川家達らと「火曜会」を結成。貴族院内に政治的革新勢力を作り、その中心となってゆく。
1933(昭和8年)貴族院議長に就任。政策研究団体「昭和研究会」結成。尾崎秀美もメンバーの一人
1934(昭和9年)訪米。フランクリン・ルーズベルト大統領および国務長官コーデル・ハルと会見。
1936(昭和11年)3月4日。宮内庁で西園寺と会談、二二六事件の責任を取って辞職した岡田啓介の後任として、大命を受けるが健康上の理由をもって辞退。後任は、広田弘毅。
1937(昭和12年)1月。腹切り問答を機に広田内閣が総辞職。宇垣一成内閣は、陸軍の反対から組閣不能となり、後任
の林鉄十郎内閣は、3ヶ月の短命内閣で終わる。6月4日西園寺の推薦で、再度大命が下りる。第一次近衛文麿内閣誕生。首相就任時45歳で伊藤博文に次ぐ、史上2番目の若さ。政財界・陸海軍・一般民衆に至るまで、受けが良かった。治安維持法で捉えられた共産党員。二二六事件の逮捕者に恩赦を与えようとして、周囲を驚愕させる。7月7日。盧溝橋事件勃発。日中戦争が始まる。9月2日。第2次上海事変が、全面戦争になるのを受け「北支事変」を「支那事変」と変更する閣議決定がなされる。
1939(昭和14年)1月5日。第一次近衛内閣総辞職。平沼騏一郎内閣が発足。8月23日独ソ不可侵条約が締結。平沼内閣総辞職。後任は陸軍出身の阿部信行、次に海軍の米内光政が引き継ぐ。8月30日ドイツのポーランド侵攻し、イギリス・フランスがドイツに宣戦布告。第二次世界大戦が始まる。
1940(昭和15年)3月25日新党構想の具体化。ソ連共産党・ナチス党をモデルとした独裁制政党の結成を目指す聖戦貫徹議員連盟を結成。陸軍の大臣の辞任により、米内内閣が総辞職。近衛文麿に大命が下りる。7月22日第二次近衛内閣7月26日「基本国策要網」閣議決定。「皇道の大精神に則りまつ日満支をその一環とする大東亜共栄圏の擁立を図る」構想を発表。議会制政治に終止符を打つ。9月23日北部仏印進駐9月27日に日独伊三国軍事同盟を締結(枢軸国の原型となる)11月10日神武天皇即位から2600目に当たることから、紀元二千六百記念式典を執り行い国威を示す。
1941(昭和16年)4月任期満了に伴う衆議院選挙を1年延期。対米戦決意を明らかにする。4月13日日ソ中立条約を締結。6月22日独ソ戦勃発。7月18日第二次近衛内閣総辞職(松岡洋右を更迭させるのが目的)7月18日第三次近衛文麿内閣発足。10月14日近衛内閣嘱託の尾崎秀実と西園寺公一が、ゾルゲ事件により、
検挙される。(日本軍の南進を世論操作)10月18日近衛内閣総辞職。(内閣総辞職と米英蘭開戦により、近衛への尋問はうやむやになる)開戦目前の政府を引き継ぐ大命が下りたのは、東条英機。12月8日大東亜戦争開始。
1942(昭和17年)ミッドウェー海戦の敗戦を、米英との和平交渉の機ととらえた元外交官駐英大使吉田茂は、近衛を中立国スイスに派遣。英米との交渉を考えるが、木戸幸一が握りつぶす。和平の機会を失う。
1943(昭和18年)日本の戦況が不利になってゆく。近衛は和平交渉の糸口を探す。
1944(昭和19年)7月9日サイパン島陥落。東条内閣に対する退陣論が上がる。7月22日東条内閣辞任。小磯圀昭内閣発足。
1945(昭和20年)1月25日。京都近衛家の陽明文庫において、米内光政・岡田啓介と仁和寺の門跡岡本慈航と、退位を含めた天皇陛下について会談。2月。戦局が悪化する中、天皇陛下は東条英機・平沼騏一郎・広田弘毅・若槻禮次郎・牧野伸顕・岡田啓介・米近衛文麿の7人の意見を聞く。4月7日中国和平交渉をめぐる内閣府一致で小磯は辞任。鈴木貫太郎、第42代内閣総理大臣となり、鈴木内閣発足。6月22日。内務大臣木戸幸一らの提案「ソ連を仲介とした和平交渉」を認めた昭和天皇「特使の派遣をしたらよいのではないか」と話したことが元となり、近衛文麿に特使役が回って来るが、既に対日侵攻を決めているスターリンは拒否。8月6日広島原爆投下。8月8日ソ連による対日戦布告。樺太・北方領土侵攻。8月9日長崎原爆投下。8月15日ポツダム宣言受託・大東亜戦争終結。8月17日鈴木内閣総辞職。東久邇宮稔彦王内閣が発足。戦後処理に当たる近衛文麿は、国務大臣となる。9月2日第二次世界大戦終戦。10月4日英米を中心とした連合国による日本占領開始。連合国総司令官ダグラス・マッカーサーを訪問。近衛の話に耳を傾けたマッカーサーは、「世界に通じるコスモポリタン」と、彼を評し「敢然として指導の陣頭に立たれよ」と激励。10月5日治安維持法の廃止を巡り、東久邇宮内閣総辞職により、近衛文麿は私人となる。10月8日GHQ政治顧問ジョージ・アチソンを訪問の後、天皇陛下から、内大臣府御用掛を任ぜられ、帝国憲法改正策に乗り出す。11月9日東京湾に停泊している米海軍艦アンコンに呼び出され、軍部と政府の関係について、米国戦略爆撃調査団による、厳しい尋問を受ける。11月15日「戦争責任に関する覚書」をアチソンに提出。12月6日連合国最高司令官総司令部は、日本政府に対して近衛文麿を逮捕するように命令。近衛はこれを軽井沢の山荘で聞く。12月16日未明自殺。享年54歳2か月。この日は巣鴨拘置所に出頭を命じられ最終期限日自殺。死因は青酸カリによる薬物。

近衛文麿星読みhistory

本文に入る前に、近衛家についてご説明。鎌倉時代中期に確立した、藤原摂関家嫡流で、近衛家・一条家・九条家・鷹司家・二条家(序列準)と、公家の頂点に立つのが五摂家。
近衛家は、その筆頭であり、江戸時代に入ると、近衛家・一条家・鷹司家は、跡取りがいない場合、男性皇族が婿養子として入ることのできる皇別摂家でした。華族としては、最高位の公爵に位置。つまり人臣の中で、最も天皇陛下に近い地位にあるのです。

☽年齢域0~7歳1891年(明治24年)~1898年(明治31年)

近衛家29代当主近衛篤麿(公爵)と,その妻近衛衍子の長男として、1891年(明治24年)10月12日近衛文麿は,、東京で誕生しました。
血筋としては、後陽成天皇から12世孫にあたります。母の衍子は、旧加賀藩主前田慶寧(侯爵)の五女。文麿は、正に公家と武家のハイブリッド。曾祖父である近衛忠煕が命名。当初「あやまろ」としたものの、呼びづらいため「ふみまろ」にしたそうです。(本編では、近衛文麿・文麿のいずれかで表記)

父の篤麿は、1885(明治11年)~1890(明治23年)まで、伊藤博文の勧めで、ドイツ・オーストリアのボン大学・ライブリッヒ大学に留学。帰国して間もなく文麿が生まれたのでした。
欧州へと旅立つ頃、清仏戦争に清が敗北した時で、台湾海峡を通過する際、島にたなびくフランスの国旗を見て、「我が国何ぞこれを対岸の火事視して可ならんや。唇亡歯寒の極の喩、みるべきなり」と日記に書いているのですが、次は日本の番だと、白人帝国主義への危機感を募らせたのです。
明治自時代初頭の日本は、西洋諸国のいずれの国とも、圧倒的な国力差があり、白人至上主義と植民地の拡張に、恐怖心や危機感がありました。国力を上げるために、富国強兵に乗り出すわけですが、人材育成にも力を注ぎ、多く若者を留学させたのです。その結果、、多くの者が西洋文明や教育に魅せられ、心酔しました。(この頃、欧州各国は社会主義・共産主義思想が、浸透し始めていましたが、これをそのまま輸入したわけです)
しかし、強すぎる危機意識や刺激から、国粋主義に傾く者もいたのです。文麿の父、篤麿も、その一人でした。

文麿が生まれた年、来日したロシア皇太子ニコライが、狙撃された大津事件が起こり、近衛家は公爵という立場もあり、貴族院を代表して篤麿は見舞いに行っています。時事に関心高く、政界にも力を持つ篤麿は、日清戦争以降、東邦協会の副会長になり、中国との関わり深めました。
因みに、篤麿は1863年6月26日生まれ。☀は♋ですが、この日の☽は、♎。文麿の☀星座は♎。さらに篤麿の♃が、♎にあるのも、親子縁を物語っていて、篤麿の精神性や価値観が、文麿に大きく影響した。と、筆者はみています。

位の高い家で生まれて、何不自由ない文麿ではありますが、誕生から8日後の10月20日。母の衍子は産後の肥立ちが悪く他界。約1年後、衍の妹の貞子が、後妻として篤麿の元に嫁ぎ、男の子を三人。女の子を一人産みました。

☿年齢域7~15歳1898年(明治31年)~1906年(明治39年)

文麿少年時代を迎えます。父篤麿は、学習院第7代院長を務め、華族の子女教育に力を入れる傍ら、アジア主義を掲げて東亜同文会を興し、頭山満・犬養毅とも活発な交流を続けました。次期内閣を目指そうかという時に、中国に渡航。伝染病アクチノミコーゼ(放線菌病)に感染したことで、1904年(明治37年)1月1日。死去します。(享年40歳)
「文麿さえいなければ、私の産んだ息子(秀麿・直麿・忠麿)のいずれかが、近衛家の後継者になれた」と、周囲に愚痴をこぼす母。どんなにできた女でも、いざとなれば、自分の産んだ子を優先に考えるのは、自然の摂理かもしれません。

12、3才で第30代近衛家当主を引き継ぐ文麿は、それまで生みの母と思っていた貞子が、継母と知り大ショック。さらに、生前、事業と政治活動に出資金を出していた出資者が、篤麿の訃報を聞いて、返済を求めて近衛家に押しかけてきたのです。
公爵は貴族院議員として無報酬なため、主な収入は貴族院議長と学習院の院長職のみ。
「日本がアジアの盟主となり、欧米列強に対抗するべき」と言って、活発な政治活動を行った篤麿は、かなり借金を作っていました。近衛家、否、文麿にとって深刻だったのは、篤麿が作った借金と、貞子の口から出る愚痴でした。文麿は父の死を境に継母貞子と不仲になり、借金返済を求めて押しかける出資者の姿に、世間の薄情を感じるのです。

父親の他界から約2か月後。生前の父が望んだ日露戦争が起きました。当時はまだ子どもの文麿。泰明尋常小学校(中央区銀座5丁目に現存する区立小学校)卒業後、学習院中等科に進みます。どことなく反抗的な気質や、陰のあり方は、この頃に形成されたと、後に本人が、述懐していますが、これだけ強烈なことが起きれば、性格ゆがむのは、無理からぬこととは思います。

♀年齢域15~24歳1906年(明治39年)~1915年(大正4年)

1909年(明治42年)3月。17歳で学習院中等科を卒業した文麿少年。華族の子女は学習院高等科に進学するのですが、当時文麿は、新渡戸稲造に感化されていました。そのため、彼が校長を務める一高(現東京大学教養学部および、千葉大学医学部の前身となった旧制高校)を、進学先に選びます。

やがて哲学者になる夢を抱いた文麿は、1912年(明治45年)3月に一校を卒業すると、帝国大学哲学科に進学します。が、哲学科の方針は、天皇中心の国家主義でした。
<資本主義体制は、プロレタリア革命により崩壊し、やがて社会主義が到来する>と論じるマルクス経済学に、感銘を受けていた文麿には、天皇中心の国家主義が、全然響かなかったのです。

京都帝国大学で、マルクス経済学を教えていることを知ると、10月に京大へ編入。河上肇にマルクス経済学と、社会学者米田正太郎の講座を受けました。河上に深く師事し、社会主義思想の要点を学びました。後に政権担当した際、配給制に結びつく下地になったようです。学習院中等科で、1学年先輩だった木戸幸一がいて、交流を深めました。
父の残した借金に関して、活動を共にしていた仲間が助成してくれたのか、京都での学生生活は、毎月150円(当時大卒初任給50円)の仕送りがありました。

1913年(大正2年)首相を辞任した西園寺公望が帰京すると、清風荘に赴き面会。二人の顔合わせは、これが初めてで、学生当主近衛文麿に対し、「閣下」と呼びかけます。既に60を越し、首相経験もある西園寺公ですが、近衛家の方が格上という気遣いですが、プライドの高い文麿は、馬鹿にされたと気を悪くしたエピソードが残っています。
その後、アイルランドの詩人、オスカー・ワイルドの「社会主義下における人間の魂」を、翻訳後、私有財産制度は諸悪の根源と、社会主義を礼賛。1914年(大正3年)4月に文芸雑誌「新潮」に掲載しましたが、後に発禁処分を食らいました。

一高を卒業する頃に、一目ぼれした毛利千代子(毛利高範子爵の次女)と、ついに結婚したのもこの頃で、身分違いの恋愛は不幸の基。と、周囲に猛烈な反対された末の恋愛結婚でした。宗忠神社で挙式。神社近くの呉服店別荘を借りて住んだようです。
結婚後、夫婦仲もよく、男女二人ずつの子どもにも恵まれ、円満家庭ではありますが、公家筆頭の近衛家の若き当主で、長身(180㎝)&ちょっと影のあるインテリイケメンな文麿。モテないわけがなく、数人の妾と隠し子もいます。

このエッセイでは過去、日清戦争、日露戦争前後の人物を扱った際、明治時代の日本は、欧米列強と肩を並べ、時代を牽引するエリート層。生まれた土地で家族と共に、先祖を敬い、ひなびた生き方をする一般庶民。と、事実上、二重構造化が進み、それが大東亜戦争の終戦まで続いていたと記しています。
エリート層の教育は、欧米の学問をふんだんに取り入れたのですが、当時の欧米は、フランス革命よろしく、歴史・文化・伝統への敵視と解体を解く、ジャン・ジャック・ルソーの「進歩主義」。「労働者を救うために、資本主義を打ち砕こう」という「社会主義」や、「マルクス主義」が、浸透していました。その本質を知らぬまま輸入。

徳川慶喜の政権交代で、江戸時代にピリオドを打ったのに、承服せず、旧時代の制度と徳川を倒すために、戊辰戦争を起こした明治新政府の面々には、妙な親和性もあったのでしょう。
先祖代々守ってきた歴史と文化を継承するよりも、国の未来を背負おうとする明治時代学生の中に、あれは野蛮な時代の恥ずべきことと、忌み嫌う傾向が加速したのです。
日本の良き伝統を忘れ去り、欧米化しすぎる風潮に、危機感を抱いた明治天皇は「教育勅語」をお造りになりました。しかし、当初多くのエリート層は、「これは一般人向けに作られたもの」として、見向くことはなかったのです。

明治後期に入り、40年代になると、教育現場に行政視察の制度化がされました。その際、各学校への役人等の視察制度が導入されました。この視察学級の成果判定基準として使われたのが、「教育勅語」の暗記暗唱だったのです。こうして全国の小学校で、「教育勅語」暗記暗唱の義務付けが始まりました。教員によっては、より良い評価を得るために、暗記や暗唱の苦手な児童に、負担を強いるようにもなったのです。

日清・日露戦争を勝ち抜いた日本は、台湾や韓国の併合だけでなく、満洲に引かれたシベリア鉄道の支線を得たことで、満州鉄道を中心とした都市計画を進め、アジア圏に影響を持つようになりました。
近代化と工業が盛んになることで、田舎で田畑を耕す生活から、都市部に移り、工場に勤める庶民も増え、一般層の生活も変化します。活気をもたらす効果もありましたが、今の時代のような、社会的セーフティーネットがないため、何かあった際、親族や地縁の援助が受けられないため、著しい労働問題と社会問題を生み出したのです。
働く人たちの労働環や、福利厚生等の整備は、追いつかず、10歳前後の子どもや女性も、昼夜金問わず、長時間労働につき、酷使されました。

1911年(明治44年)ようやく工場法が成立。施行はさらに5年後の1916年(大正5年)を待たなければなりません。皇室は労働者や貧困層の救済に、私財を投じ、支援の手を差し伸べましたが、数も規模も増えるため、追いつかなかくなったのです。
大正時代に入ると、生活基盤の弱い人たちへの助成を宗教団体(特にキリスト教)と、社会主義者が行い、下支えしたのでした。ハイクラスな家庭の人や軍人で、良心的な人、正義感のある人は、より社会主義や、共産主義をベースにした思考に浸透し、幼い小学生には、教育勅語の強要という状況が、文麿の♀年齢域の社会環境でした。

☀年齢域24~34歳1915年(大正4年)~1925年(大正14年)

1916年(大正5年)10月12日。満25歳に達した近衛文麿は、世襲により貴族院議員になります。第一次世界大戦が終結した1918年(大正7年)12月。雑誌「日本乃日本人」に、「米英本位の平和主義を排す」という論文を発表。

・米英人は、正義や人道を大義とするが、それは米英本位の平和主義で、欺瞞である。
・各国平等の生存権を確立するには、大国が植民地を開放し、天然資源の供給地として
平等に利用できるようにするべき。

要約すると、こんな感じですが、論文が軍部に受け入れられて、近衛文麿は軍部の支持も得るようになりました。
1917年(大正6年)ロシア帝国が滅び、世界初共産主義国ソ連が誕生します。その後、コミンテルンを創設したレーニンは、ロシア帝国が中国で獲得していた権益を手放し、「民主化を応援する」と、中国に近づき、欧州勢と日本の支配に悩む中国は、ソ連の誘い水に乗ってゆくのでした。

1919年(大正8年)1月。第一次世界大戦終結後の講和条約や、新たな国際体制の樹立が、検討されるパリ講和会議が開催されました。日本からは全権大使に元老西園寺公望が参加。西園寺は米英リベラル派で、不一致は多々あるものの、見所があると思った近衛文麿を、随員の一人として同行させます。
日本は国際連盟規約の中に、『人種差別の撤廃を明記するべき』と、人種差別撤廃案を議会に提案しました。人種差別の撤廃。白人至上主義の時代に、これは世界初の試みだったのです。提案の作成には、文麿も積極的に関わりました。

賛成多数の評価を前に、これはいけるかな!と思った矢先、アメリカのウィルソン大統領が「このような重要なことは、全会一致でなければ可決にならない」と言い出し、強引に否決してしまったのです。アメリカも決して一枚岩ではなく、人種差別撤廃法案に賛同する議員もいましたが、当時の日本人、知る由もありません。
それだけでなく、中国大陸への門戸開放を求めて、日本への圧力を強めるアメリカ大統領の姿勢を目の当たりにした文麿は、先に書いた論文「米英本位の平和主義を排す」の正当性を実感したのでした。

フランスから帰国した文麿は、革新的な左翼思想を正義とする軍人、政治家、文化人等との交流を深めます。一方で、近衛家当主として、貴族院の最大会派である研究会に所属しますが、旧態依然たる場の空気に、嫌気がさしました。

戦争を終わらせるための戦争として、第一次世界大戦に参戦をしたウィルソン大統領は、「民族自決」を主張。朝鮮半島や中国の独立を煽り、反日運動を焚き付けた事もあって、当時、正義感のある政治家や軍人、学生たちの間で、ウィルソンが嫌われていたことも、日米の亀裂を深める原因でした。日本のアメリカ離れが加速する反面、資本家と国の利権を悪とみなし、立ち向かうのが正義とする共産主義に魅せられます。「レーニンに学べ」というほど、レーニンには人気が集まったのでした。

♂年齢域34~45歳1925年(大正14年)~1936年(昭和11年)

関東大震災の傷がいえないまま、昭和を迎えますが、当時の政治が経済オンチなため、昭和恐慌が起きる1927年(昭和2年)。ついに研究会を脱退した近衛文麿は、学生時代の盟友木戸幸一。徳川宗家を継いだ徳川家達らと、貴族院改革を目指した「火曜会」を発足しました。
政治的地盤を作り始める、西園寺との距離を一段と取ります。

今の時代もそうですが、威勢がよく、怖いものなしの話し方や、情に訴える方が、大衆受けするのでしょう。当時一般庶民から観た近衛文麿は、長身で軽やかな身のこなし。崇高な家柄と高学歴ながら、華族中心の考えではなく、公平な立場で物を言うことから、人気がありました。欧米に気を遣い、様々な分野とのバランスを取りながら、国の運営を行う政治家や政党と違い、しがらみのない言動が、将来の首相候補と、期待させたのです。

1931年(昭和6年)関東軍の石原莞爾中佐と、板垣征四郎大佐らによって、満洲の奉天を走る路線を爆破。当初これを中国軍の仕業と称して、満洲を次々と制圧する満州事変が起きました。1932年(昭和7年)3月には、日本の傀儡国家・満洲国を、関東軍が宣言します。当時、中国の反日感情は、深刻な状況でした。

邦人殺害などもあることから、日本の世論は、満洲国建設に沸きあがり、1933年(昭和8年)1月。近衛文麿は、満洲帝国の正当性と、米英への反発を主題にした論文を、一般大衆が読む雑誌に掲載。ポピュリズム(大衆主義)な意識を持つ文麿の論文は、多くの人に賞賛され、彼の人気は、爆上がりします。

何故、満州事変が起きたのか。こうなる背景には、立憲政友会の党首となった犬養が、与党の濱口雄幸内閣に揺さぶるツールとして、統帥権干犯問題を、議会に持ち出したことにありました。
統帥権とは。軍を動かす権利の事です。当時の大日本帝国憲法には、大きく2つの決めごとがありました。
大日本帝国憲法第11条「天皇は陸軍・海軍を統帥する」
陸・海軍を、指揮・統率して動かすことのできる権利=統帥権。実際には、天皇陛下は最終決定だけで、口出すことはなく、基本的なことは、陸軍は参謀本部。海軍は軍司令部が自由に決めて動いていました。
大日本帝国憲法第12条「天皇は陸軍・海軍の編成や予算を定める」
陸・海軍の組織管理の権利。これは陸軍大臣・海軍大臣が内閣で、政策立案し、帝国議会で可決されれば政策が動き出しました。形としては、生徒会と部活との予算会議とか近いかもしれません。

事の起こりは1930年ロンドン海軍軍縮会議。国際連盟の枠組みの中で、加盟国の戦艦保有数削減を決めるこの会議に、日本政府(濱口雄幸内閣)は、交渉役に若槻禮次郎を送り込みました。10年ほど前のワシントン海軍軍縮会議で、米英と日本の保有する戦艦数を、10:6に減らされたため、海軍の一部は「軍艦の保有数は、絶対7割」とこだわっていたのです。
若槻、結構頑張って、6.975割にするよう交渉を進めますが、これ以上は無理で、瀬戸際に立ちました。日本国内でも、海軍の責任者、統帥を預かる軍令部長、海軍省の責任者などが話し合った結果、「政府が最善を尽くせばよし。条件を飲もう」で、一致したから、天皇陛下へ報告。

「みんなが良ければ、これで決まりね」と、天皇陛下のOKが出たと聞いた若槻は、条約の内容を受け入れる方向で話をまとめました。が、議会承認されるか否かという矢先、「やっぱり、この条件のみたくない」と、海軍司令部がゴネ出したのです。
今更無理!で、若槻は、6.975割の削減案で米英の炬火を取り付けたのでした。

ほぼ、7割近いのですが、思い通りにいかず、恨みを抱いた海軍司令部が、野党の立憲政友会を通して、「軍の許可なく、勝手に調印した!」と、濱口内閣をつつくネタにしたわけです。それだけで済めばよかったのですが、
「軍令部の意見を無視した条約調印は、統帥権干犯である」
「内閣は、軍令部のいうことに、口出しする権利がない。これは憲法違反だ」と、犬養と鳩山一郎が言い出し、政治が軍をコントロールする権利がない。という事になったのでした。この話、時代に埋もれていますが、実にとんでもない話で、それこそ大東亜戦争への道まで、影響を及ぼしたのです。

戦争は始める以上に、終わらせることが難しく、その見極めと講和交渉が、とても重要でした。講和条約をまとめるには、仲介に立つ国が必要で、それをどこに頼むのか、どんな条件を提示するのか等、話をまとめるのは、政治家の仕事です。
日清戦争・日露戦争と、大国を相手に日本が勝てた背景には、軍の頑張りもありましたが、戦後問題も含め、収束にさせる方向へ、政治家が動いた事が大きかったのです。

大日本帝国憲法を定めた当時、このような問題が浮上するとは、想定外だったのもありますが、統帥権干犯問題が発生するまで、軍は政府のコントロール下にありました。
政治が軍をコントロールする術を失った事から、満州事変も起きたのです。

さらに1932年(昭和7年)5月。五・一五事件が起きました。濱口内閣で決めた軍縮会議の結果に、不満を抱く若い海軍将校らにより、時の総理犬養毅は、暗殺されたのです。
戦艦の保有数が思い通りにならない怒りもありますが、犯行声明ともいえる檄文を読むと、民衆に向かい、「現政権・制度をぶち壊せ」と主張。これは「これまでの制度を忌み嫌い、壊す」社会主義・共産主義の思想が、意識、指向性に浸透し、物事を考える基礎として、構築されていると考えられます。

政府の失策による昭和恐慌と、経済不況からくる閉塞感が募る世間からは、五・一五事件を起こした青年将校たちに、同情が寄せられました。公判に向けて、「三上中尉、国家革新運動の精神を強く語る」「飢える農民のため橘、法廷に泣く」といった情に訴える見出しの記事が出回り、それが全国規模の減刑署名活動に発展するのです。

1933年(昭和8年)貴族院議長に就任する近衛文麿は、自身が中心とした政策研究団体「昭和研究会」を発足させました。労働科学の創設者と言われる暉峻義等をはじめ、三木清・平貞蔵・笠信太郎・勝間田清一・正木千冬・和田耕作らが、名を連ねます。やがて、朝日新聞社の社員尾崎秀実(ゾルゲ事件)も、後ほど加わりました。軽快な口調で、人を和ませる尾崎は、文麿のブレーンの一人となります。

1934年(昭和9年)米国に渡った文麿は、フランクリン・ルーズベルト大統領・国務長官コーデル・ハルと会見しました。帰国後、「彼らは極東についてまったくの無智だ」と言っていますが、この二人と、イギリス首相チャーチル。その背後にいるスターリンと、尾崎経由で踊らされる文麿によって、数年後、日本はとんでもない敗戦戦争のシナリオに巻き込まれるのです。

♃年齢域45~57歳1936年(昭和11年)~1945年(昭和20年)

1936年(昭和11年)2月26日。陸軍の皇道派といわれる青年将校たち、約1400人が、首相官邸・警察・朝日新聞社などを襲撃する二・二六事件が起きます。

どこの組織にも、派閥争いがありますが、陸軍は内部改革を巡って、ザックリと統制派と皇道派に別れていました。北一輝の「日本改造法案大綱」の中に書かれている<天皇と軍隊を中心に日本を改革すべき>という思想に影響を受けた皇道派の将校たちは、地方の農村出身者も多く、昭和恐慌の惨状に心痛めていたので、国への不満を煽られやすかったのです。部下の多くは詳しい計画を知らされず、上官に従った1400人の反乱ですが、
『資本主義の現政府をぶっ壊して、天皇陛下を中心に、新たな国を作ろう。昭和維新だ!』「政府の重鎮たちが、天皇陛下をそそのかしているんだ」と、昭和恐慌に歯止めをかけた、岡田内閣の閣僚を襲撃。逆に天皇の怒りを買った凶事で、昭和恐慌を止めた高橋是清をはじめ、有能な議員が殺害されたのです。

3月4日。宮内省で西園寺公と会談した文麿に、二・二六事件後に辞職した岡田啓介の後継として、大命が下りました。家柄、経歴、人気いずれも二重丸な文麿ですが、健康上の理由をもって辞退します。当時文麿と親しく交流していた軍人は、皇道派。今回の二・二六事件がらみで、粛清されることへの不満があったのでした。
外務大臣上がりの広田弘毅が、第32代内閣総理大臣になります。期間はほぼ1年弱、この広田内閣で、陸軍の寺内寿一陸軍大臣の働きかけで、「軍部大臣現役武官制」が復活しました。宇垣内閣→林内閣と、あまりにも短命内閣が続き、西園寺公は再度、近衛文麿に総理の椅子を進めたのです。

この意向を受けて、1937年(昭和12年)6月4日。近衛文麿は、第34代総理大臣となりました。45歳7か月。初代総理大臣伊藤博文に次ぐ史上2番目の若さで、議会制政治のトップに立ちますが、♃年齢域らしい、拡張期とも言えます。
この日の星回りですが、
☀♊13°04・☽♈7°23・☿♉19°36・♀♈29°53・♂♏23°10R・♃♑26°43R
♄♈3°36・♅♉11°30・♆♍16°11・♇♋27°06・☊♐15°07R

文麿のN♎☀とT♊の☀が調和。♍N♂と♄は、T♃♑とT♉☿に支えられています。T♈☽と♄はN♎☿と調和。立ち位置が変わる。生活サイクルが変わるなど、変化を告げ、♊を進むT☀が、N♊♆♇コンビを照らし、N♓♃と、水と風の緊張角度をとるのが、この人事の先を物語る気もします。

組閣では内閣書記長(現・内閣官房長官に近い立ち位置)を設け、昭和研究会の会員で、国民同盟の衆議院議員風見章を任命(風見は元新聞記者で共産主義者)。外務大臣に広田弘毅、軍部大臣に杉山元(陸軍)と、米内光政(海軍)が留任。その他の人的配置も、おおむね財界から高評価が付きました。
政財界だけでなく、軍部にも顔が広く、五摂家筆頭の近衛家当主の内閣誕生に、要人暗殺が起こる社会不安や、経済不況を払拭したかった庶民も大歓迎。新内閣の期待値は上がったのです。内閣スタートの際「国内各論の融和を図る」として、近衛は二・二六事件の逮捕・服役者の大赦を強く求めました。文麿なりに、軍部と内閣の食い違いをなくそうとする思いから、出たようですが、さすがにこれは、周囲と西園寺に却下されます。

就任から一月後の7月7日。北京郊外の盧溝橋付近で、日本軍と中国軍の間で、小規模な武力衝突が発生。事件を大きくしない不拡大方針を主張する、参謀本部の石原莞爾少将に、議会も同意しますが、話が一転二転するうちに、政府が派兵の主導権を握る方がいいと、近衛文麿は考えました。援軍派兵を巡り、閣議で派兵を決定した7月11日。夜には、財界の有力者や、新聞関係者を首相官邸に集めて、内地の三個師団を派兵することを発表。それだけでなく、国内の世論を統一して、盛り上げるように鼓舞。戦争やろうぜ!と、煽動したのです。
「日本が強力な一撃を加えれば、中国はすぐに屈服する」という、楽観的な考えが主流でした。そのため文麿も甘く考えていたのです。
和平工作も行われますが、すべてうまくいかず、第二次上海事変を機に、小競り合いだった戦は、日中戦争へと変貌。1945年8月15日終戦まで続きました。
「支那事変を解決するには、日本の国内体制を資本主義から、社会主義へと意向させる必要がある」と、昭和研究会の三木清の提案。風見の推薦で、昭和研究会に入ってきた尾崎秀実は、言葉巧みに戦火拡大・延長論を展開したのでした。

1938年(昭和13年)1月11日御前会議が開かれ、陸軍参謀本部の主導で「支那事変処理根本方針」が決定され、オスカー・トラウトマン中華ドイツ大使に、日中和平交渉の仲介役を頼みます。が、「トラウトマン和平交渉」が始まった矢先、国民政府の首都南京を、日本軍が陥落させました。
すると、近衛内閣は、交渉の途中で、和平の条件を釣り上げ、日本政府の強硬な姿勢に、元々乗り気でなかった蒋介石は、和平交渉を拒否。1月14日近衛内閣は和平交渉打ち切りを、閣議決定。二日後の16日に、第一次近衛声明「国民政府を相手とせず」を、国内外に発表し、交渉を打ち切ったのです。

4月には「国家総動員法」「電力国家管理法」が可決。翌5月に施行して経済の戦時体制を敷きました。これは国が戦争の際、日本の人的、物的資源を、自由にできる法案で、とんでもない!と、反対する議員もいました。
末次信正内務大臣や、風見内務書記官といった近衛のブレーンである昭和研究会の閣僚が、衆議院の解散と、近衛を中心とした新党発足を、チラつかせたのです。庶民人気の高い近衛が、政党を立ち上げるとなれば、他の政党は議席を減らすのが、明らかでした。
反対しても法案は通る。政党の議席は縮小となる。不詳ながら議会は、近衛内閣に妥協せざるを得なかったのです。
ソ連の第1次五か年計画を、模倣にしたと言われる、「国家動員法」ですが、財産の私有よりも共有、富のあるなし、努力をするしないに関係なく、全員が一律の分配(ただし、ここは無言の強制徴用がセット)といった内容は、近衛文麿や昭和研究会の面々が、学生時代に学んだ「自由・平等・博愛」を旨とする、社会主義や共産主義思想の発想です。
近衛内閣は、一段と日本の国家社会主義化に、コマを進めたのでした。

その一方で、軍部を抑えやすくするために、陸軍大臣の更迭。国民政府の№2で、親日派の呉汪兆銘和と、平交渉に着手します。

11月3日第二次近衛声明「東亜新秩序」を発表。これは、日本の目指す新秩序に協力するなら、それを拒否しないという内容でした。中国側が満洲国を承認する事。日本軍は2年以内に中国から撤兵する事を、盛り込んでいます。
和平交渉に応じた汪兆銘を、国民政府から離脱させ、亡命後に親日政権を作った上で和平交渉を目指していたことから、彼が重慶脱出後、第三次近衛声明を発表。

「東亜新秩序」の補足のように<善隣友好・共同防共・経済提携>が語られたのですが、<日本軍は2年以内に中国から撤兵する事>という一文が、第三次近衛声明には、ありませんでした。日本政府に強い不信感を抱く、汪兆銘ですが、国民政府総裁の蒋介石と対立したことで、党籍と職務をはく奪されてしまいます。この頃、蒋介石は米英の支援を受けたことで力を増し、中国はナショナリズと、反日感情に燃えました。
「和平工作」を進めつつ、戦争の拡大を行う近衛内閣。日中戦争はさらに泥沼化し、
進退窮まったことから1939年(昭和14年)1月5日。近衛内閣は、総辞職しました。

次は司法官僚出身の平沼騏一郎が、内閣スタートさせますが、近衛内閣から7人の閣僚が留任。枢密院となった近衛は、肩書のない班列という立場で入閣しました。急進的改革論者だった風見章と末次信正。有馬頼寧らは、組閣から除外となりますが、犬養健(犬養毅の長男)西園寺公一(西園寺公望の孫)。そして尾崎秀実の進言で、風見は「支那研究室」を設立。尾崎はここに、日本共産党の参議院議員や、マルクス経済学者。熱心な共産党新派の青年などを、繋いでいったのです。
共産主義。その根幹は、唯物論による宗教の否定。一党独裁の下、私有を認めるよりも、生産の国有化を行うことで、貧富の差をなくし、徹底した経済平等を目指すという思想です。闘争と対立を手段とするので、武力革命を支持。議会で話し合い、物事を進める議会制民主主義とは、相容れない思想です。ソ連は、それを体現した国でした。ちなみに社会主義も、私有を否定することで平等な社会を目指しますが、武力よりも選挙と議会を行うことを重視はします。

いずれにしても、議会制民主主義国の日本としては、手段を択ばない共産主義を警戒していました。憲兵による取り締まりも強化しましたが、幕末明治初頭、積極的に輸入した西洋の教育は、唯物論と共産主義思想に染まっていため、エリート層は、意識的に影響を受けやすい立場にあったのです。
国内不安を革命に発展させ、皇帝を滅ぼし、ソ連を作り上げたレーニンは、世界赤化を目指して、コミンテルンを立ち上げ、共産主義に感化された人たちが、自国の中枢に入り込み、国のうちから社会を、見えない形で破壊してゆくことを支援しました。
共産主義に理想を抱いた近衛公麿しかり、近衛を取り巻く者たちは、国を根幹から変えようとしましたが、その背後には、ソ連という存在があったのです。明治後期から大正、昭和と、日本と険悪になったアメリカにも、影響を与えたのでした。

そんな背景があることに気づくことなく、1937年に結んだ日独伊防共協定を、ドイツと共にグレードアップする気でいた平沼は、8月23日独ソ不可侵条約が締結されたことに、大ショック。総辞職してしまいます。後任として、陸軍出身の阿部信行と、海軍の米内光政が、短期間政権を担いますが、その間に、ドイツはポーランド侵攻を開始。これを受けて、英国とフランスが、ドイツに宣戦布告。ついに第二次世界大戦が始まりました。

1940年(昭和15年)5月。ドイツがフランスへの侵攻を進める頃、日本では「一国一党制の、全体主義国家を樹立すべきだ」という主張が上がりました。平沼内閣から外された近衛のブレーンが、近衛文麿を党首とする新党を立ち上げるべく、新体制運動を展開したのです。文麿は、これを了承。6月後半に、新体制を発表しました。
近衛・木戸・有馬が連名で行う新体制に、陸軍も期待をかけ、親米英派の米内光政内閣を倒閣します。

長年に渡り。総理大臣を任命していた元老西園寺公望ですが、高齢化が進んだことから、承認のみで、実際は内務大臣が担当していました。時の内務大臣は、新体制三人組の一人木戸です。近衛文麿を押す木戸に、お伺いを立てられた西園寺公は、「この奉答だけは、ごめん被りたい」と拒絶しました。しかし、その意向は反映されることなく、近衛文麿が新たな総理大臣に決まったのです。

私邸の萩外荘に、松岡洋右次期外務大臣。吉田善吾海軍大臣。東条英機時期陸軍大臣を招いて、「ドイツ・イタリアとの同盟推進」「ソ連との不可侵条約の締結」「東亜新秩序の建設推進」といった内閣の方針を決めた近衛文麿。世界を欧州・東亜・米国・ソ連の四ブロックに分け、各国の指導国が連携することで、平和となる。そう考える外務大臣の松岡は、東亜の指導国日本と、西欧の指導国になるドイツやソ連と手を組めば、米国も強硬な態度には出ないだろうと判断。提携を背景に米国と対等な立場で交渉する気でした。
1940年(昭和15年)7月22日。第二期近衛文麿内閣をスタートさせます。

数日後には基本国策要網を閣議決定。東亜新秩序の推進として、東南アジアにある欧米列強の植民地も含む構想も盛り込んだ「大東亜共栄圏」構想を打ち出します。新体制運動の下、8月には全政党の解党が進み、日本の議会制政治は死滅。彼らの行き場として、できたのが、「大政翼賛会」でした。「バスに乗り遅れるな!」のキャッチコピーは、この当時から始まり、時代に取り残されかけた議員たちを急き立てます。
9月には、日独伊三国同盟が締結され、第二次大戦の枢軸の原型がつくられました。
これで日本に対して、米国も手が出しづらくなるであろう。という目論見は、米国が速攻で日本への屑鉄輸出禁止したことで外れ。悪化していた対米関係は、さらに悪くなり、双方の国民感情も、嫌悪し合う方向に染まりました。

政党政治をなくし、一党政党となった日本は、10月12日「大政翼賛会」の式典を行います。「公益のみを目的とする」日本独自の組織観と見て良いと思いますが、組織が大きくなる分、様々な考えや価値観も存在します。
「天皇陛下は戦争の長期化を望んでいない。なのに何故。戦争辞めないの?」という疑問から、陛下のお言葉と、近衛内閣の在り方を考察し、批判した大学生たちを、共産主義者の捕縛という名目で、憲兵を動かして黙らせる。という事を行いましたが、同じ土俵の政治家や、財界人を相手にはそうはいきません。
「一党独裁の近衛新体制は、国体に反しるんじゃないの?」という批判や「ご摂家の筆頭が天皇陛下そっちのけでなにしてるの?」と、疑問の声に、♎気質の意識が働いたのか、誰に対しても公平であることで、自分をスマートに見てもらいたい近衛文麿は、総裁として演説の際「大政翼賛会の網領は、大政翼賛・臣道実践という言葉に尽きる。綱領も宣言も不要と申すべき」と語ったのです。政治組織として、綱領は不可欠なのにない。そのため、大政翼賛会は発足日に、意味を失ったのでした。彼を担ぎ上げ、結党に心血を注いだブレーンは、がっかりしたようです。
11月10日には、神武天皇の即位から2600年目に当たる年であり、紀元2600年記念式典を執り行いました。

破竹の勢いで進撃するドイツに、苦戦を強いられるイギリス首相チャーチルは、戦況を有利にするため、米国に参戦してもらう事を考えます。米国大統領ルーズベルトは、国内不況という経済問題を、何とかする必要に、迫られていました。但し、ルーズベルト大統領は、自国が被害に遭わない限り、自ら戦争をするようなことはしない。反戦の旨を選挙公約にしていたので、防衛以外の出兵命令が、出せません。軍需産業を活性化するために、ここはあえてこちらに向けて、攻撃を仕掛けてくれる国が欲しい。
一発でも打ち込まれれば、反撃を理由に参戦できる。その相手に選ばれたのが、近衛内閣が引いた日本だったのです。
1941年(昭和16年)4月11日には、日ソ中立条約を締結。アメリカをけん制できる可能性を、松岡外相は作りました。米国では国務長官のコーデル・ハルと、駐米大使野村吉三郎の間で別交渉が行われ、米国が蒋介石に和平勧告を進めることや、満洲国の承認という、日本にとっておいしい内容が提示されます。
日米諒解案による交渉を、帰国した松岡に提案すると、「話しうますぎる。これ、騙されてない?」と反発し、修正案を米国に提出しましたが、米国はこれをスルーします。
米国は日米諒解案を実行するつもりはありませんでした。巧みに日米和平交渉を攪乱し、日本を混乱させるのが狙いだったので、松岡の懸念は、正しかったのですが…。

6月後半には、独ソ戦が勃発。松岡の構想は崩れ、三国同盟にある日本は、ドイツとソ連。どちらに着くのか、方針を求められます。これを機に、ソ連を叩きたい陸軍。米国に資源輸入の封鎖を喰らっている現状も鑑みた海軍は、南進を希望しました。
資源確保のため、樺太方面への侵攻「北進論」も出ますが、独ソ戦の間こそ、「南進」して、資源確保の方がいいだろうと、近衛ら閣僚は主張。但し、南進すれば、米国の植民地フィリピンがあるため、米国を怒らせる危険を孕んでいるので危険はあったのです。
次第で、関東軍はソ連に攻め込み、海軍は南部仏印への進駐で、話はまとまります。
その後、も7月18日。近衛は第二次内閣総辞職をしました。

最初は使えると思った松岡が、思い通りにならない上、南進論にも否定的なため、外したい。しかし、大日本帝国憲法では、内閣総理大臣に、閣僚を罷免させる権限がない。そのため、総辞職をしたのです。同年7月18日、第三次近衛内閣を発足しました。
外相には、南進論の海軍大将豊田貞次郎を任命。日米交渉も再開させます。

米国に通知の上、日本は南部仏印進駐を開始しますが、8月1日。米国は日本への石油輸出を禁止したのでした。当時石油の8割を、米国頼みにしていた日本。戦時下ということもあり、石油備蓄量は、もって1年半という事態に陥ります。

これは日中戦争だけでなく、国内にも深刻な影響を与えてしまうことになるため、近衛文麿は、ルーズベルト大統領に、日米首脳会談を打診しました。
しかし、打診はすべて無視されます。石油窮乏に陥った状態で、米国から戦争を仕掛けられることを懸念した陸海軍は、「米英との交渉期限を10月上旬の期限として、この時までの間に要求が受け入れられないなら、開戦を決定する」旨の「帝国国策要領」を作成します。これが9月3日の大本営政策連絡会議に提出。近衛はこの時点で、同意。

9月6日天皇陛下を交えての御前会議が開かれると、昭和天皇は、開戦ではなく、交渉で日米関係の修復を願いますが、「帝国国策要領」自体は、そのまま承認されました。その後も、近衛は米国との交渉を進めようと打診します。
10月2日ルーズベルト大統領は、正式に「日米首脳会談の拒否」を日本に通達。
近衛は陸軍大臣の東条英機中将に、中国からの撤兵を即しますが、「陸軍の総意」として、拒絶されます。これは10月14日の事ですが、同日、近衛内閣。そして日本を震撼させる事件が起きました。

第一次内閣の頃から、近衛の側近となり、常に政策に携わっていた尾崎秀実。そして西園寺公一が、ソ連のスパイとして、逮捕されたのです。尾崎は元朝日新聞の社員で共産党員という経歴の持ち主でしたが、同時にリヒャルド・ゾルゲが主導するソ連諜報組織、ゾルゲ諜報団の団員だった事が、明らかになりました。
常ににこにこと、人当たりよく話す彼は、日中戦争が起こると、戦争拡大方針を主張して、世論の戦争熱を煽り、和平交渉打ち切りに近衛を誘います。さらに第三次近衛声明で、「2年以内の撤兵」の一文を削除したのは尾崎。確証はうすいですが、疑いたくなるほど、戦争の長期化をもくろむ発言は、随所にありました。

何故、戦争の長期化を狙うのか、国力が落ちれば、内政も国内も混乱が起き安く、人々の不満に火が付き、革命が起こしやすいからです。さらに「北進」か「南進」か決める際、「南進」を進言したのも尾崎。政府中枢情報は、見事にソ連に筒抜けでした。
近衛内閣が総辞職した、10月18日。検察はゾルゲをはじめとする3人の外国人スパイを検挙します。

総理の椅子を下りる際「戦争に私は自信がない。自身のある人にやってもらわねばならん」と言った近衛文麿。次の総理大臣は、木戸の発案で陸軍大臣東条英機に決まりました。
「対米開戦」というおまけを、近衛文麿からもらった東条は、ここであらためて天皇陛下のご意向を伺います。陛下に忠実な東条は、ご意向を胸に、これまでの主張と真逆な、戦争回避のため、日米交渉に尽力を尽くしました。
ゾルゲ事件の捜査も進め、近衛文麿の取り調べを検察に命じますが、12月8日。
ついに米国大統領の願い通り、日米開戦勃発。パールハーバーを喜んだのは、時の米国大統領と、米軍を援軍として使えた、イギリス首相チャーチルだったかもしれません。
近衛の捜査は、有耶無耶。終戦直前までは自由人となりました。
開戦当初は連戦連勝の日本軍でしたが、1943年(昭和18年)には、戦局が不利になります。自由人となった近衛は、太平洋戦争勃発後は、和平運動に傾きました。外交官だった吉田茂や、元総理経験者等で構成された重臣たちと交流。陸軍の反東条派と連携します。
1944年(昭和19年)7月9日。サイパンが陥落。これは日本の絶対防衛権が陥落したことを意味し、ここから執拗な、日本本土への空襲が始まるのでした。
サイパン陥落の際、東条の退陣論が浮上しますが、それを知った近衛は「このまま東条にやらせて、責任を取らせればいい」と述べ、敗戦を見越して、すべての責任を、東条に負わせる事を考えていました。
7月22日東条内閣は退陣し、1945年(昭和20年)4月7日まで、小磯國昭が内閣を率いますが、日本の敗戦は明らかで、混乱はその後も続きます。

1945年(昭和20年)1月25日京都の近衛家陽明文庫において、岡田敬介・米内光政。仁和寺の門跡岡本慈航と近衛は、敗戦後の天皇陛下退位の可能性を話し合い、もし退位がなければ、陛下を落飾させ、仁和寺の門跡にする計画がされたという説と、米内の手記に当日の話し合いについての記述がないので、ここは意見が分かれますが、近衛が東条ほど、昭和天皇を思っていなかったことから、発展した話なのかもしれません。

2月4日ソ連のクリミア自治区ソビエト社会主義共和国のヤルタ郊外にある、リヴァディア宮殿で、英国・米国・ソ連による連合国首脳会談が行なわれ、終戦後の処理について話し合いがあり、この席でソ連と米国は、ヤルタ密約協定を締結。ドイツ敗戦後90日後、ソ連対日参戦。千島列島・樺太・朝鮮半島・台湾等、日本の領土への処遇もここで決定したのでした。

2月14日近衛は昭和天皇に拝謁し、国体を保持存続させつつ、早期和平の実現を主張する「近衛上奏文」を上奏します。日中戦争や太平洋戦争の責任を陸軍の統制派や、過激な共産主義者に、押し付けるような文面は、採用されることなく、4月7日に海軍大臣鈴木貫太郎による内閣が発足します。

夏至の頃、天皇陛下は、内務大臣木戸幸一などからの提案「ソ連を仲介にした和平交渉」を受け入れ、政府に進めるよう即します。総理の鈴木貫太郎は、「誰か特使を派遣するのがよいのでは」と言い、白羽の矢が近衛文麿に当たりました。
7月12日天皇陛下から正式に、特使に任命された近衛文麿は、「ご命令とあれば、身命を賭けていたします」と、いいますが、内心、和平仲介は英国だろうと考えていたと、実は嫌がっていたことを、当時側近だった細川謹貞は、戦後に述べています。

この特使話ですが、日本侵攻を決めていたスターリンに、仲介役になる意志はなく、拒否されました。8月に入り、敗戦を受け入れる日本に、追い打ちをかけるよう、広島と長崎に原爆が投下されます。この時の大統領は、ルーズベルトの死去に伴い、副大統領だったトルーマンでした。
原爆の効果は破壊的過ぎて、被害が深刻になるということを想定する軍人や、科学者は使用しないよう求めますが、ポツダム宣言を大義名分にした、トルーマン大統領は聞き入れませんでした。

8月15日日本はポツダム宣言を正式に受託。有条件降伏するのです。鈴木内閣は退陣。
8月17日皇族東久邇宮稔彦王による内閣が発足しますが、東久邇宮は皇族であり軍人なため、全ての政治活動を禁じられていました。そのため近衛は、副総理格の無任所国務大臣として入閣し、内閣の方針を全て委ねる立場になったのです。
日本軍の武装解除は進みますが、ここでソ連が北海道支配を狙い、侵攻を開始。千島列島と樺太、さらに満洲でも、生死をかけた戦いが起きました。

9月2日日本は降伏文書に調印。これでようやく、戦争終結を迎えたのです。連合国11か国で構成される極東委員会がワシントンに設けられると、委員会で決定した政策を実行する機関として、連合国最高司令官総司令部(GHQ)が、日本に設置されました。
GHQは、東条英機を筆頭に、戦犯容疑者と思われる人物を、逮捕していったのです。
10月2日近衛文麿は、最高司令官はダグラス・マッカーサーと会談し、日本の共産化を防ぐために、皇室残すことや、財閥などの保守勢力との協調は重要と説明。これに共感したマッカーサーは、近衛を世界に通じるコスモポリタンと称し、「敢然として指導の筆頭に立たれよ」と、励ましました。その数日後、GHQから治安維持法等、旧来の背策の廃止を迫られた東久邇宮内閣は、総辞職となります。
公の仕事から離れる近衛は、GHQ顧問官ジョージ・アチソンから、「新たな憲法の作成」を命じられていることに、新時代の政治的地位は、遠くないと信じました。

ところが、対米開戦への経緯や、日中戦争に至る過程を紐解くGHQは、戦前の近衛の政治姿勢を知り、「あの近衛って、戦争責任、あるんじゃないの?」と、疑い出します。
新憲法作成を依頼した人物なのだからと、近衛救出を訴える者もいましたが、GHQは「東久邇宮内閣の副首相という立場にある近衛に依頼したのであって、近衛個人ではない。内閣総辞職によって、当然依頼は消滅したもの」と主張。
12月9日GHQは近衛文麿に逮捕命令を出しました。

これを受けた近衛は、出頭最終期限日である12月16日未明。荻外荘で青酸カリを服毒し、自殺を図ります。享年54歳。自
殺前日、近衛は次男の通隆に、遺書を口述筆記させました。
「自分は政治上、多くの過ちを犯してきたが、戦犯として裁かれねばならないことに耐えられない。僕の心は知る人ぞ知る」といったものが、主な内容です。
文麿と仲が良かった弟(母違い)の秀麿は、「兄は政治家に全く向いていなかった。哲学者や、評論家になっていれば、あんな最期を迎えることはなかったのに」と、その死を悼みました。

日本が日中戦争、太平洋戦争に参戦する経緯を絡めて、今回近衛文麿を描きました。
服毒自殺に関して、ホロスコープの公開はいたしません。
近衛個人が、戦争に至る方向を、選択する際、そうなるべく、仕向ける人物もいましたが、当時の日本人が考えもしなかった米国や英国の事情。ソ連の狙い等が潜み、絡み合っていたことが、少しでも多くの方に伝わると幸いです。