実は知られていない部分も多い犬養。星読みヒストリーと、五・一五事件に至った経緯も取り上げました。

【犬養毅 ホロスコープ】
1855年6月4日 備中国賀陽郡川入村(現・岡山県岡山市北区)出生時間不明
☀星座 ♊
☽星座  ♑(午後生まれなら♒)
第1室(本人の部屋)♊ ☀・♂・♄ 第7室(契約の部屋)♐
第2室(金銭所有の部屋)♋ ☿・♀ 第8室(授受の部屋)♑ ☽
第3室(基礎の部屋)♌       第9室(精神の部屋)♒ (☽が入る可能性あり)
第4室(家族の部屋)♍       第10室(社会の部屋)♓ ♃・♆
第5室(嗜好の部屋)♎       第11室(友人希望の部屋)♈
第6室(健康勤務の部屋)♏     第12室(障害溶解の部屋)♉♇・♅・☊

東半球に星が多く、ほぼ、ボールタイプなホロスコープ。
自分の持つ経験、知識、人脈等、あらゆるものを活用して、独立独歩な性質を持ちます。(ホロスコープは、地図と東西南北が、逆になります。12室の順番はかわりませんが、誕生時間が明確であると、ホロスコープの完成度は上がり、第1室にくる星座が、☀星座とも限りません。誕生時間不明の場合は、☀星座が第1室となります)
第1室と第12室、どちらもステリウム。
☀/♄のコンジャンクション。表に出ると叩かれやすい傾向もありますが、タフネス。♂も♊なので、動きに勢いはあるでしょう。♂は、第10室の♃とスクエア。☀と♄は♆とスクエアとなり、どちらも柔軟宮の星座なので、状況しだいで良くも悪くも激変するでしょう。

第12室♅/☊ ♇/☊のコンジャンクションは、大衆を率いる重圧を背負うとも言えます。♇を挟む形で、第2室の☿。第10室♃は、二等辺三角形を形成。さらに第10室♆は、
♀も調和。どこか面倒見もよく、人の話をよく聞き、優しい面も持っていますが、人との
距離感は独特な風星座の☀♄という組み合わせ。

♋に☿♀。♓の♃♆。水星座の組み合わせに、穏やかな土星座の性質を、根底から覆そうとする♉♅があるので、自分の考えや、新たな情報をアレンジして、アウトプットしてゆくことは得意。ただし、時として言葉のきつくなる面も出てきます。政治の世界に長く身を置いた犬養ですが、議論・論争には、負けないのを、星も物語っているのでしょう。

出生時間不明なので、☽が第8に入るか、第9室に入るか、ここは本当に微妙ですが、個人の者とのめぐり合わせが、♋♀。
第8室授受の部屋は、社会的なめぐり合わせをみる部屋です。手堅くサクセスストーリーを描いてゆく♑の☽と、オポジションというのは、あながち馬鹿にできないと思います。

犬養毅 年表(ウィキその他。資料参照)

1855年6月4日(安政2年4月20日)備中国賀陽郡川入村(現岡山県岡山市北区)大庄屋犬飼源左衛門の次男として生まれる。
1860年(万延元年)父から四書五経の素読を受ける。
1865年(慶応元年)三餘塾にて経学を修める。
1868年(明治元年)父が病死。
1869年(明治2年)自宅で塾を開講するが、間もなく倉敷へ移る。
1872年(明治5年)小田県庁に勤務
1876年(明治9年)上京。慶応義塾に入学。
1877年(明治10年)3月休学。郵便報知新聞の従軍記者として、西南戦争を取材。
1880年(明治13年)慶応義塾を卒業目前で、自主退学。郵便報知新聞記者となる。
1881年(明治14年)7月統計院権少書記官に就任。10月大隈重信の下野に着く。
1882年(明治15年)立憲改進党入党。
1885年(明治18年)郵便報知新聞退職。朝野新聞社入社
1890年(明治23年)7月第一回衆議院議員選挙に、岡山県第三区から立候補し、当選。
1894年(明治27年)中国進歩党を結成。
1896年(明治29年)進歩党を結成。
1898年(明治31年)憲政党を結成。10月大隈内閣の文部大臣就任。憲政党分裂により、憲政本党に所属。
1903年(明治36年)大石正巳と中国・朝鮮半島視察。
1907年(明治40年)遠山満らと中国訪問(11月~翌年1月帰国)
1910年(明治43年)立憲国民党を結成
1911年(明治44年)辛亥革命の援助のため、中国へ渡る。
1913年(大正2年)第一次護憲運動を起こし、第3次桂内閣を打倒。尾崎行雄と共に「憲政の神様」と呼ばれるようになる。
1922年(大正11年)革新倶楽部を結成。
1923年(大正12年)第二次山本権兵衛内閣の逓信大臣就任。関東大震災の復興に務める。
1924年(大正13年)第2次護憲運動後、加藤高明内閣で逓信大臣留任(翌年5月30日迄)。
1929年(昭和4年)孫文慰霊式に参列。立憲政友会総裁に選ばれる。
1931年(昭和6年)12月第29代内閣総理大臣に就任。犬養内閣を組閣。
1932年(昭和7年)5月15日首相官邸襲撃を受け、同日夜半死去。(五・一五事件)

犬養毅 星空history

●☽年齢域 1855~1862(安政2~文久2年)

犬養毅は1855年6月4日(安政2年4月20日)備中国賀陽郡川入村の大庄屋・郡代も務める犬飼源左衛門の次男として生まれます。(あだ名は木道。本編では犬養毅・犬養で、表記します)犬飼家(後に犬養と改姓)は、庭瀬藩から苗字帯刀を許された家柄。父の源左衛門は、備中松山藩板倉氏分家の庭瀬藩郷士でした。
農民をはじめ。地域に住む人々と、藩をつなぐ庄屋さんですね。因みに生家は現存していて、隣には犬養木道記念館があります。岡山へ旅行の際、訪るのも良いと思います。
2歳の頃、源左衛門氏がコレラで亡くなった説がありますが、これは誤り。それどころか、4、5歳という幼い時期に、儒学者でもあった父から、四書五経の素読を習うのです。教育熱心な父もだけど、儒教の導入ではなく、かなり重要な部分を5歳で習うって…毅少年、半端なくすごい。

●♀年齢域 1870~1879(明治3~明治12年)

犬養の♀年齢域は、西洋で流行っていた社会主義、ファシズムが、学問と一緒に入ってきた頃で、明治時代の立ち上げ時と重なります。明治政府は、日本を中央集権型の国にするため、江戸時代にあった行政システムを、根こそぎ変えました。国の防衛を徴兵制に変え、廃刀令を打ち出し、富国強兵を行います。そのペースはものすごく早く、倒幕に加勢した武士たちは、変容についていけず、明治政府に裏切られた感を抱き、全国各地で反乱が起きるのでした。

1871年(明治4年)漢文を修めた毅少年。当時の国際法を漢文に訳した本「万国公法」に出会いました。西洋の感覚や、宗教観などについて、英語がわかれば、もっと理解できるかも!と、知識欲と好奇心を掻き立てられます。
 1875年(明治8年)上京を果たした犬養毅。同郷の藤田茂吉を紹介され、共慣義塾で英語の基礎を学びました。但し、貧乏学生の犬養は、生活と勉学にあてるお金を、稼ぐ必要があります。身の上相談を受けた藤田は、自身が務める郵便報知新聞社で、記事を書くバイトをしながら、慶応義塾に入る事を提案しました。
 
1876年(明治9年)21歳で慶応義塾に入学した犬養青年。盟友となる尾崎行雄との出会いもあり、英語を究めつつ、漢学塾の二松学舎で漢学を習います。学問に励む傍ら、郵便報知新聞で、記事を書く二重生活。同時進行で違うことをするのは、さほど苦でないのが、風属性星座の強みです。まして犬養は、金銭所有の部屋に☿と♀が♋、あるので、表現力で食べる。稼ぐことはできそうです。

翌1877年(明治10年)2月。西南戦争が起きました。「武士」の時代を終わらせる節目を迎えた西南戦争は、犬養毅にも、運命の切り替えポイントになったのかもしれません。

「九州で西南戦争の取材をしてくれたら、今後も学費の援助をするよ」
 藤田の提案に、乗り気で休学し、3月には現地入りした犬養。このサクッとした動きは、ミュータブルというか、♊っぽい気がします。
「戦地直報」と命を打った第一報が、3月27日の郵便報知新聞に掲載されると、臨場感と質の高さ。読みやすさが揃った記事は、高い評価を得て、注目を浴びました。田原坂の撃戦で、川路利良率いる警察隊が組織した抜刀隊が、「戊辰の仇」と叫びながら、切り込んでいったと報じたのも、犬養の取材といわれています。

明治政府軍が勝つことで終わった西南戦争。かつて明治6年の政変で、西郷隆盛と共に、明治政府を離れて、郷里の土佐へ戻った板垣退助は、武力で押し切る時代の終わりを認識すると同時に、言論で自らの意思を主張する方向に、舵を切りました。
明治政府に集う者たち(エリート層)だけが政を行い、国民はただそれに従うのは、おかしい。五箇条の御誓文第一条にある「広く会議を起こし万機公論に決すべし」の体現を目指すべく、多くの人の声が参加し、国のあり方を話し合う国会開設と、憲法の制定を求め、自由民権運動を起こすのです。

西南戦争が終わって、帰京した犬養。郵便報知新聞社の「学費出す代わりに、週3回論説を書いて」という要求に悩みました。渋々OKします。ところが、郵便報知新聞社。半年もたたないうちに、学費の支払いを渋りだし、論説の回数を増やそうとするため、ついに切れて犬養、喧嘩状態で郵便報知新聞社を辞めたのです。
学費どうしよう…。切実な悩みに、友人が添削の仕事を紹介してくれました。

持つべきものは友ですね。これで勉強に専念できたのです。当時、毎週土曜日に行われる三田演説会では、福沢諭吉が演説をした後、犬養も演説を行いました。やがて福沢と犬養は、李氏朝鮮を独立させるために奔走した金玉均を、フォローする事になるのですが、犬養の意識が、アジアに向いたのは、福沢の思想的影響もあったのかもしれません。 
●☀年齢域 1879~1889(明治12~明治22年)

1880年(明治13年)慶応義塾卒業を目前にした25歳の犬養。郵便報知新聞の主筆栗本鋤雲から「新聞記者にならないか」と誘われます。勤労学生で、勉学だけに打ち込むことが難しく、数学のテストで悔しい思いをした犬養。既に英語は学んだし、やりたいことが見つかった。それでよし!と、自主退学を選択。これは負けず嫌いな性格と、若気の至りで、走ってしまったかなと思いますが、同年8月には、東海経済新報を発行。ジャーナリストの道を進み始めます。

やがて東海経済新報が、明治政府の参議を務める大隈重信の目に留まりました。
佐賀県出身の大隈は、「政府の統治は、憲法に基づいて行うべきだ」と考えていて、その視点から、薩長土肥出身者が優遇される明治政府内。特に薩長が幅を利かせる藩閥政治を批判し、一日も早い国会の開設と、議院内閣制に基づいたイギリスを模範とする憲法の制定を強く主張。福沢諭吉とも仲が良く、有能な慶応義塾出身者を、自身の勢力に取り入れました。

薩長閥の中心的存在の伊藤博文は、国会開設やるけど、段階を踏んで進めよう。国の君主の権限の強いドイツを模範にした憲法の制定を主張。
両者、対立の渦中、人を引き付ける文章力と、話術を持つ犬養に目をつけた大隈は、「国会答弁を行う政府委員になってくれ」と,要請したのでした。

1881年(明治14年)7月大隈のスカウトを受け、犬養毅は官僚へ転身。統計院権少書記官となりました。統計院とは、国税調査などを行う統計調査の部門で、尾崎行雄も同時期に務めています。ところが、ここで世間を騒がす事件発生。
北海道開拓長官だった黒田清隆、国が作った建物や設備を、薩摩藩繋がりの五代友厚に、安く払い下げようとしたと、報道されたのです。経済構造の急激な変化と、直接納税制に不満が募っていた庶民は、この汚職事件に大激怒。日々新聞をにぎわす中、黒田は左遷となり、払い下げ話もなくなったのですが、今度は「黒田潰しは、大隈による仕掛けじゃないか」という噂が広まりました。

同年10月11日。伊藤博文たちは、大隈重信を罷免。明治十四年の政変を起こして、明治政府から追い出しに成功。その翌日「1890年(明治23)に国会を開設します」と国会開設の詔を出したのです。(かなり平たく言っています。気になる方は、明治14年の政変。もしくは黒田清隆で検索してください)
大隈に集められた人々も、政府から去っていきました。官僚になって3か月後、離職となった犬養。この後は、大隈のブレーンとして、新党立ち上げの準備に勤しみます。

伊藤が目指す君主制に基づく憲法の制定が、色濃くなるかと思いきや、国会開設に向けて、「主権は国民にあり」「普通選挙」「租税の軽減」を掲げた自由党を、板垣退助が立ち上げ、以降、全国で様々な政党が立ち上がったのでした。
フランスの民権思想に影響を受けた自由党は、地方の中小の地主や士族、農村の人々と幅広く支持されました。党員は明治政府への恨みを抱く者も多く、政治不信が募っていた庶民感情とスパークし、集会は過激になりがち。政府ににらまれ始めます。

翌1882年(明治15年)松方デフレの真っ只中で、世相は荒れ気味な4月。岐阜で演説中だった板垣が、襲撃を受けて負傷する事件発生。批判の対象は、明治政府とも限らなかったのでした。
4月下旬、大隈が「王室の繁栄(だけど権限は憲法で制限されている)」と「人民の幸福」を掲げる立憲改進党を結党。元々インテリ層に人脈を持つ大隈なので、知識人や大地主。実業家が、主な支持者層で、二院議会制と制限選挙(ある程度財産を持つ人への選挙権)を主張してゆきます。

板垣率いる自由党と、大隈率いる立憲改進党。共通点があるのなら、「自分たちも明治維新を迎えるために頑張ったのに、政府は薩長中心なのが不満」でしょうか。
日々の糧を得ながら、慎ましく暮らす庶民層と、独立国として存在し続ける日本を牽引するエリート層の、二重構造社会を表している当時の日本を、物語っているともいえます。
この頃の犬養は、立憲改進党結党を、売り込むための記事を書き、かつて喧嘩別れした郵便報知新聞社をはじめ、各新聞社に足を運びました。
自由民権運動が熱を帯びる中、集会を開けば、警察が出動するレベルの暴動を起こした自由党は、1884年(明治17年)過激派と穏健派による内部分裂で解散。(後に立憲自由党として復活)
立憲改進党にも、解散の空気が流れますが、犬養は解党反対の立場でした。同年12月朝鮮半島で、甲申事変が起こり、井上馨外務卿が、特派全権大使として、朝鮮に赴きます。
これに併せて、郵便報知新聞社の特派員的な立場で、犬養毅は激動の朝鮮半島に渡りました。

甲申事変武装蜂起に失敗し、日本に亡命してきた金玉均。この時犬養は、隣接していた井坂早夫(元浅野新聞社記者)宅に、彼を住まわせ、交流を深めているようです。 
 明治政府も、福沢諭吉と犬養も、日本と朝鮮の和合があれば、清とも対等な立場で交流できるようなる。清とも強調できれば、アジア圏を西洋諸国の植民地政策から、開放できる道ができと、理想を持っていました。が、明治政府は朝鮮王朝。
福沢と犬養は金玉均を選びます。

明治政府は、亡命者金玉均を冷遇。犬養の助言や制止を振り切り、金は中国の李鴻章に援助を求め、上海に渡りますが、そこで暗殺されました。朝鮮側の金玉均の殺害と、遺体の扱いを知った福沢は、その跡に「脱亜論」を出しています。

1885年(明治18年)12月22日大政官制が廃止され、伊藤博文が初総理大臣となり、内閣制度がスタート。翌1886年(明治19年)3月。自由党と立憲改進党は、双方の考えや理念の違いは横において、政府と闘うために団結しようと、後藤象二郎を中心に同団結運動を起こしました。

犬養と尾崎は、この運動に熱を入れますが、数の力で勝とうとする姿勢に、脅威を感じた政府は、さらに秘密集会や、結社を保安条例で抑える方向に出ます。
犬養の☀年齢域が仕上がりを迎える1888年(明治21年)2月。第一次伊藤内閣に、大隈重信が、外務大臣として入閣。外務大臣秘書官として任命されたのが、後に第24代総理大臣となる加藤高明でした。
●♂年齢域 1889~1900(明治22~明治33年)
 
1889年(明治22年)犬養の☀年齢域と♂年齢域が交差する年。ついに大日本国憲法が発布されます。第2代総理大臣黒田清隆内閣は、超然主義を掲げますが、後藤象二郎を逓信大臣として、入閣させました。これを吉とする者もいれば、入閣する後藤を、裏切者扱いする者も出てきて、大同団結運動は、分裂してゆきます。
同年10月18日黒田が「不平等条約の改正を断行する」と発言した事を受け、交渉責任者である外務大臣大隈重信は、改定に反対していた元玄洋社の来島常喜により、外務省の門前で、爆弾を投げつけられました。
一命をとりとめますが、右足大腿下三分の一で、切断するという重症を負ったのです。

1890年(明治23年)7月1日。戦う火星年齢域に、ふさわしい序章とも言えますが、第1回衆議院議員選挙。大隈から資金援助を受けた犬養毅は、地元岡山から立候補。演説の力で見事に当選。(以降、42年間18回連続当選。これは、尾崎幸雄に次ぐ記録になります)

第1次山縣有朋内閣で迎えたこの選挙は、小選挙区制(1つの選挙区ごとに1名のみ選出)。 
定員300人に対し、立憲自由党130人(旧自由党)。立憲改進党41人。大成会79人に、無所属45人と、民権派が過半数の議席を取ったのでした。 
因みに当時の有権者数は、45万人強。直接国税15円以上(当時の金額)を納める25歳以上の日本人男性のみ。当時の感覚で見たら、一般年収の6,7倍の収入がある人たちに、選挙権が与えられたわけです。投票率は93%強でした。

同年11月24日仮議事堂竣工。29日貴族院議場において、開院式が行われた後、第一回帝国議会は開催され、第一号法案として「窮民救助法案」が提出されます。
 近代産業国家になり、世界と肩を並べることで、植民地化される危険を回避するため、国は富国強兵を推し進めました。全国の主だった地域に工場ができることで、漁村や農村に暮らす人にも、就職の選択が広がります。
しかし、子どもから大人に至るまで、男女の別もなく、長時間の重労働に就くことで、著しい健康被害、低賃金等の問題。この当時の工場労働に、現在のような福利厚生はありませんし、地方から著しく人が離れて、都市部に人口が集中することから起こる社会問題に、国も手が回らなかったのが実情でした。 

第一回目の国会では、国民の助成も議案に上りましたが、「一部の貧困者を救うために、国民の血税を使うのはいかがなものか」と、反対意見が多く出たことを受け、衆議院はこの法案を否決します。
想定しつつ、成り行きを見ていた福沢諭吉は、政治から一歩引きました。社会的弱者の生活の支援や助成は、皇室。一部の篤志家に、キリスト教をはじめとする宗教団体。社会主義者たちが、行うようになってゆくのです。

立憲改進党の議員となった犬養は、藩閥政治に対抗してゆきました。日清戦争の1894年(明治27年)は、中国地方出身の議員たち数人と、立憲改進党と統一会派となる中国進歩党を結成。その後、1896年(明治29年・)7政党が合同となる進歩党結党に参加。尾崎と共に総務を務めます。
当時は、第二次松方正義内閣。責任内閣。財政整理。国権拡張等、今でもそのまま使えそうなことを、公約に掲げた進歩党から、大隈重信が外務大臣(農商務大臣兼任)に就任。
他にも内閣書記官長や法制局長官に、進歩党の議員が起用され、政府は政党の意見を無視できなくなり、国民の権利を認める政策も、打ち出されるようになりました。

1897年(明治30年)第5回総選挙では、300議席中、立憲自由党105議席。進歩党104議席。この2党で、過半数を越したのです。第三次伊藤内閣の地租税改増に反発した2党は、勢いで憲政党を発足。政党内閣の樹立や、地方自治の発達などを掲げて結党。
元老院では、政党政治を快く思わない山縣有朋と、伊藤博文の間で大喧嘩もあり、1898年(明治31年)6月30日。第一次大隈内閣(=隈板内閣)が爆誕します。

史上初政党内閣である大隈内閣で、犬養も初入閣。文部大臣の席に着きますが、内輪揉めの連続で、たった4か月で内閣は退陣。この辺りも♂年齢域らしい、激変ぷりとも言えますが、党も憲政党(旧自由党)と憲政本党(進歩党)に、分裂したのでした。
代わりに立ったのが、第2次山縣有朋内閣です。政党政治を嫌う山縣は、治安維持法を公布。政治集会と連動する労働運動や、農民運動を、取り締まりを行っていきます。
●♃年齢域 1900~1912(明治33~明治45・大正元年)

1900年(明治33年)これまでずっと藩閥だった伊藤博文が、立憲政友会を立ち上げました。最強カードが、政党を立ち上げました。伊藤のところなら、勝てるかもしれない!勝ち神輿めがけて、憲政党は解散。立憲政友会に合流。憲政本党からは、尾崎行雄らが離反して立憲政友会へ入党していきます。(以後、政友会と記載)
この頃の犬養は、「非改革派」として、憲政本党に身を置き、派閥よりも、アジア主義に力を入れていました。玄洋社の中心人物と言われる右翼の巨頭頭山満と、気心知れる間柄になり、日露戦争の前年1903年(明治36年)。さらには1907年(明治40年)以降、清に渡っています。

孫文の一時亡命の際、早稲田に用意した住まいを斡旋した犬養。神戸に設立された、神戸中華同文学校の名誉校長にもなりました。拡張期な♃年齢域らしい動きですが、♆が♓同室のため、華々しさはないとも言えます。
1906年(明治39年)第一次桂内閣に代わり、西園寺公望内閣がスタート。西園寺が属する政友会は、トップが伊藤で、長州出身の議員も多いことから、長州閥の桂太郎とも親和性がありました。桂と西園寺が、交互に政権を取る「桂園時代」が続きます。
伊藤博文が、ハルピンで安重根に暗殺された後、ました。日韓併合条約が締結される1910年(明治43年)犬養は、反政友会各派と結束して、立憲国民党を立ち上げます。

1911年(明治44年)第二次桂内閣が辞職。第二次西園寺内閣が始まりますが、組閣は原の意向に沿ったため、政友会の議員が多く、周囲の反発を招きました。さらに、満洲に二個師団増設を考えていた陸軍と、予算をケチりたい西園寺内閣は対立。ここに山縣と原。桂が絡んで事態を悪化させ、怒った陸軍は、上原勇作陸軍大臣を、内閣から引き揚げてしまいます。これらは孫文らの援助のため、犬養が清に渡っていた頃の事でした。
●♄年齢域 1912~1925(大正1~大正14年)

1912年7月29日明治天皇が崩御されました。長い明治時代に幕が下り、翌7月30日には、大正天皇の践祚という、歴史的行事に西園寺内閣は奔走しますが、陸軍大臣は空席のまま。これでは政権を維持することができず、第三次桂内閣に変わったのでした。
 この頃の桂は、藩閥政治からの脱却をするつもりで、別政党を立ち上げています。しかし、国民には、山縣有朋の影響力が強い藩閥内閣。日露戦争に勝ったのに、ロシアから賠償金を取れなかったダメ内閣(何故、そうなったのかは、小村寿太郎の回を、お読みください)で、根深い恨みになっているため、批判の的にしかならなかったのです。
 
桂内閣反対のデモが、日本各地で巻き起こります。これを好機とばかりに、犬養は政友会に流れた尾崎とタッグを組んで、内閣不信任決議案を提出。政府を批判し、怒りに沸く国民に向かい、「憲政擁護」「閥族打破」を訴えました。政府に不満と不振を抱く国民は、二人が展開する憲政擁護運動に共鳴。

1913年(大正2年)国民新聞社や、交番を襲い、暴徒化すデモを前に、2月11日第三次桂内閣は、約二か月の短命政権で終わりました。犬養毅と尾崎行雄が、「憲政の神様」と呼ばれる所以は、護憲運動の成功にあったのです。
しかし、犬養が所属していた立憲国民党は、桂太郎の切り崩し工作により、既に勢力を大幅に削がれていました。桂内閣が倒れた後、海軍大臣経験者の山本権兵衛に大命が下ります。政治畑に疎い山本をフォローしたのは、政友会の原敬でした。山本内閣に6人ほど、政友会から入閣をしています。当時の犬養毅は、世界的なアジア主義功労者として、ガンジーや孫文と並び称されていましたが、国内では小政党革新倶楽部を率いて、新時代を進んでゆく状態だったのです。
 
犬養の♄年齢域は、まるっと大正時代と言ってもいい程、時期が重なります。
♄は約2年半かけて、一つの星座を進みます。明治時代終盤の1911年2月早々、T♄は、♉入り。犬養の♉には、♇・☊・♅がありますね。今後、じっくりとこの三つ星が、T♄に刺激されます。時間をかけ丁寧に積み上げてきたことには、磨きをかけ、その人にとって、本当に必要なものは残しますが、運勢上、必要が薄いものは、手離れるので、立ち位置や対人関係に、影響が出てくるのです。隣の♊には、犬養のN☀、♂と♄もあり、T♇が、数年後には♋へ移動状態でした。♉を進んだ土星は、当然次に♊入り。さらに2年半後、♋へ進み、犬養のN☿と♀を刺激するのです。単純に見ても、約7年半から8年。土星が犬養の持つ主だった星々を、通過してゆくのでした。

護憲運動を起こした1913年2月11日。T♄は♉27°犬養のN♅とN♂とコンジャンクシャン。♑を進むT♂と♒を進む♅が、犬養のN☽とコンジャンクション。♑にはT♃もあり、犬養のN♇とトリン。♊から離れかけている♇と、犬養の♋☿のコンジャンクシャンと、この辺りが、「憲政の神様」と言わせたかもしれませんが、次に組閣された山本内閣に入閣できなかったこと。1914年(大正3年)4月第二次大隈内閣が発足し、立憲同志会が与党となりました。占星術的に見て、♄が効いている時期とも言えますが、犬養の入閣はありません。

1918年(大正7年)9月。平民宰相と呼ばれた原敬が、総理大臣となりました。世間はこれを歓迎しますが、米騒動。第一次世界大戦修了によって、日本の経済が様変わりしてゆく中、スペイン風邪の流行に不況はさらに深刻化。普通選挙制度を進めなかったことから、期待が大きかった分恨みも深くなり、1921年(大正10年)11月3。原敬は東京駅で襲撃されて、亡くなります。(詳しい経緯は、原敬の回で取り上げます)

11月13日。同じく政友会の高橋是清に大命が下りました。経済には強い高橋内閣ですが、翌年、内輪揉めで退陣することになります。当時は、選挙で多数の議席を取った政党の総裁が、総理大臣になるのではなく、明治維新に功績を残したレジェンド「元老」に、任命権がありました。(松方正義と西園寺公望)憲政会や政友会の権力闘争、派閥争いが絶えない状況に不信感を抱く元老は、海軍軍人加藤友三郎を、総理大臣に任命。これに政友会は、強い不満を抱きます。

明朗快活な反面、意志強固で、卑劣なことを嫌う犬養の性格も、要因だったかもしれませんが、犬養の率いる立憲国民党は、完全に蚊帳の外でした。 
 この頃T♄は、♎を進んでいるので、大打撃はありませんが、N☿とスクエアだったり、T♇が♋にあること。♓を進む♅が、犬養のN♃とコンジャンクションと、押し出す感じではありません。

1923年(大正12年)8月24日第21代加藤友三郎総理が、在任中病死したため、次の総理を決める際、元老の二人は、政党の総裁を任命せず、第22代総理大臣に、山本権兵衛を再度選んだのでした。元老の決定に、強い不満を抱く、憲政会と政友会は、山本の内閣入りの打診を拒否。入閣を決めたのは、犬養率いる改革倶楽部だったのです。

前内閣の残留はあるものの、組閣調整に苦心している最中、9月1日11時58分。関東大震災が発生しました。
緊急性が迫られる中、第二次山本権兵衛内閣で、犬養は逓信大臣となります。壊滅的な被害を受けた、東京の電信・郵便・通信のインフラの復旧を進めました。
関東大震災時のホロスコープですが、
ASC ♐0°19 MC♍12°6
☀♍7°38・☽♉11°15・☿♎4°39・♀♍5°06・♂0°03・♃♓13°21
♄♎17°14・♅♓15°53R・♆♌18°29・♇♋12°02・☊♍11°29 

♉T☽と♏T♃は、オポジション。その間に犬養のN♇・♅・☊が、コンジャンクション。T♍にある☀♂と♀は、犬養の♓N♃とオポジション。犬養のN♆を刺激するのは、♓T♅。この♅は、犬養の♊N☀♄と、風と水のスクエアです。他を見ても、かなり緊張感はありますが、♄期もそろそろ終わりを迎えてきたのか、絶好調の時の重さはなくなっています。

震災復興を進める第二次山本権兵衛内閣は、同年12月27日。無政府主義者難波大助に、皇太子・摂生宮裕仁親王(後の昭和天皇)が、狙撃される虎の門事件が発生。引責辞任することになりました。
西園寺は、枢密院の議長を務めた清浦奎吾を、第23代総理に選びます。内閣もオール貴族院で固め、政友会から分裂した政友本党が、与党となって1924年(大正13年)1月7日から清浦内閣スタート。

時代的に、はぁ?という話なのですが、党利党略に明け暮れる政党政治に、危機感を抱く西園寺は、震災の傷が深い中、国民への助成よりも、同年5月上旬に行われる、第15回衆議院議員選挙を前に、各政党、各議員が、露骨な選挙対策に走るのを、懸念したたともいわれています。実際、野党となった革新俱楽部(犬養毅)・憲政会(加藤高明)・政友会(高橋是清)は、「護憲三派」を結成。第二次護憲運動を起こしました。
第一次護憲運動のように、国民が同調することはなく、1924年5月10日第15回衆議院議員総選挙を迎えたのです。

結果は、憲政会151議席。政友会100議席。革新俱楽部30議席。合計284議席。清浦が率いていた与党政友本党は、116議席。世論は護憲三派を指示。護憲三派連立内閣が政権運営をすることになり、憲政会の加藤高明が、第24代総理大臣となりました。
犬養は山本内閣に引き続き、逓信大臣として、加藤内閣に入閣。ノリと勢いもある加藤内閣は「治安維持法」「貴族院改革」等、起案として挙がり、施行されてゆきます。
●♅年齢域 1925~1932(大正14~昭和7年)

♄と♅が交差する年1925年(大正14年)。女性の参政権こそ、まだ先になりますが、枢密院や貴族院の反対を押し切り、「普通選挙法」が、施行されました。25歳以上の全ての男性が選挙権を得る「普通選挙法」は、犬養が若いころから主張していたことです。
 悲願達成。♄年齢域のサプライズとも言えますね。有権者は国民全体の20.1%と、大幅に増えました。選挙方法も協議され、中選挙区制が導入されました。これは戦時中を除き、1994年(平成6年)まで、70年近く継続します。

第一回目の総選挙から、政治の世界を走り続けた犬養。70歳を迎えて、自身にも限界を感じて、革新倶楽部のほとんどを、政友会に吸収させて、政治家を引退。
「40年以上、政治を専門にやってきたが、その間、失敗も下が成功もしたと言いたいが、実は失敗だらけである」
 そう言って、大臣だけでなく、議員も辞めて、富士見高原の山荘に住まいを移しました。ところが、犬養が辞めた後の補選に、地元岡山の支持者たちは、勝手に犬養を立候補させました。再選を渋々承諾しますが、静かな余生を送る気な犬養は、東京へ戻らずに、富士見高原で隠居暮らしを続け、大正天皇の崩御と、大正時代を見送ったのです。
そう、犬養毅は、国会を去り、引退したハズでした。

1929年(昭和4年)9月28日。総裁の田中儀一が、狭心症で急死したことを受けて、次の総裁をどうするか、政友会は大混乱。どの派閥から選んでも、党が分裂する可能性があり、これを防ぐため、なんと、本人も唖然、びっくりな、引退している犬養に総裁を打診。

こうして同年10月。大政党政友会の総裁となったのでした。
拡張の星♃が、♊を進み、犬養のN☀と♄に、促進効果を与えます。田中の死去から犬養の総裁就任の時期、T☀は、♎を進み、犬養の♊N☀/♂とはトリンを結び、N♄は、T♐♄とオポジション。♋を進むT♇は、犬養のN♀とコンジャンクション。N☿は、T♄とオポジション。♉で重なる☊同士。重責担うというか、移動、リターンマッチ感はあります。
 
犬養が総理に就任するのは、1931年(昭和6年)12月13日。ここに至るまでの経過を列挙すると、1926年(大正15年・昭和元年)1月28日加藤高明が肺炎で亡くなります。
第25代総理に選ばれたのは、実務能力がめちゃ高い若槻禮次郎。同年12月25日大正天皇の崩御。昭和天皇の即位により、元号は昭和となります。大正時代は、前半の戦後景気から一転して、後期は擦り切れ寸前の不況が続き、そこに関東大震災。社会的には、著しい金融不安がありました。

1927年(昭和2年)3月14日衆議院予算委員会中に、大蔵大臣片岡直温が「東京渡辺銀行がとうとう破産いたしました」と放った言葉に、世間は大反応。既に金融不安は膨らんでいたので、やむなしなのですが、整合性や、事の真意も確かめず、預金を一気に引き出そうと、中小銀行を中心に人々が殺到。取り付け騒ぎに発展したのです。

金融恐慌(昭和恐慌の前奏みたいなもの)が発生し、若槻内閣は、騒動の責任をとって総辞職。大命が下りたのは、政友会の田中儀一でした。因みに憲政会と政友会は分裂。同年6月憲政会と政友本党が合同して、立憲民政党(今後、民政党と表記)となります。
昭和初期の日本は、民政党と政友会による、二大政党政治で、衆議院の第1党の当主が総理大臣になり、その政権が「失策」で倒れたら、野党第1党に政権が移る体制でした。(病気・暗殺などの場合は、失策ではないので与党内で引継ぎ)

長州閥で軍人上がりの田中内閣で、大蔵大臣となった高橋是清の機転で、経済危機を乗り切ります。しかし田中内閣は、外交問題で退陣し、1929年(昭和4年)7月民政党の濱口雄幸内閣が発足しました。同年9月28日田中が死去したことを受け、最長老(74歳)の犬養に、政友会総裁のポストが、回ってきたという流れです。(ほぼ無理やり)

野党第一党となった、犬養が率いる政友会。与党の濱口内閣を追求する側に立つと、「統帥権干犯問題」を取り上げました。
 *統帥権とは「軍を動かす権利」陸軍と海軍の指揮権や監督権を持つ事。大日本国憲法11条(明治憲法)に「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」と定められ、天皇大権の一つでした。陸軍の参謀総長と、海軍の軍司令総長が、天皇陛下の権利代行を受け持っていたのです。
 
1930年(昭和5年)海軍の補助艦の保有量を決めるため、日本政府はロンドン海軍軍縮に参加します。過去、第一次世界大戦後に行われたワシントンでの海軍軍縮会議で、日本は保有する主力艦隊の数を、米英10対6に減らされた経緯がありました。そのため海軍の一部は、全権大使の若槻禮次郎に、割合を7割にするよう求めます。
交渉の現場で、粘りに粘った若槻。欧米から補助艦の割合を、ほぼ7割の、6.975割でどうよ。と、回答をもらいました。この結果を前に、日本海軍側は、よくやってくれた派と、完璧じゃなきゃ認めない派に割れます。 

会議期間中に、調印回をしなければいけない濱口内閣に対し、完璧じゃなきゃ認めない派な海軍側。政友会の犬養と鳩山一郎は、「内閣は軍令部に口出しできない。反対意見を無視して、民政党が条約に調印するのは憲法違反である(=統帥権の干犯)」と、詰め寄ったのでした。
「最終的な決定権は天皇陛下にあるが、天皇の補佐を任されている首相が、条約を結んで何が悪い」と議会の席で突っぱねた濱口。足並みがそろわないまま、国際協調を掲げる濱口内閣は、ロンドン海軍軍縮条約に調印したのでした。
 
この頃日本国内は、昭和恐慌真っ只中。大蔵大臣井上準之助の下、余分なお金を使わないようにと、金融引き締めに走り、金本位制復活(お金の量を減らすデフレ対策)を実施したことで、激しいデフレに見舞われます。
物価も賃金も大暴落。失業者は増大。そこに飢饉の発生も重なり、東北では娘を身売りしなければならない深刻な困窮が起きました。ニューヨークで起きた「世界恐慌」の影響もありますが、濱口内閣が経済政策を間違えたことから、経済危機が加速した上、「統帥権干犯問題」です。浜口雄幸内閣への不満は急増したのです。

1930年(昭和5年)11月14日。濱口は東京駅で狙撃されました。
「濱口は社会を不安に貶め、陛下の統帥権を犯した。だからやった。何が悪い」と、テロを起こした愛国社社員の佐郷谷留雄は、供述しますが、著しい経済危機は社会不安と、強い政権批判は、憎しみを生み、判断力を鈍らせます。
骨盤を打ち砕かれる重症を負った濱口。一命を取り留めて、代行も立てながら執務に復帰しました。議会では鳩山一郎による追及が続き、体調は著しく悪化。執務継続不能となり1931年(昭和6年)4月13日辞職します。(同年8月死去)

翌4月14日第二次若槻禮次郎内閣が発足しました。深刻な経済問題に加えて、中国が日露戦争で日本が獲得した満州権益の返還を求めてきます。この要求に対し、旅順と大連を守っていた関東軍が抵抗。9月に満洲事変が発生しました。
これまで軍は、政府のコントロール下にありましたが、先の「統帥権干犯問題」で、内閣は軍に対し、強くモノが言いづらくなっていたのです。
軍部の中にも「我々を止めることができるのは、天皇陛下のみ」と、勘違いする者が出てきて、軍部を抑えることができなくなった若槻内閣は、総辞職となりました。
与党の失政で、内閣が辞職したことを受け、野党の総裁犬養毅。76歳にして、内閣総理大臣となったのです。

1913年12月13日 当日のホロスコープ(正午・東京都千代田区)


☀♐20°08・☽♒6°59   ASC♓23°01・MC♐25°57。
☿はR。♑6°15・♀♑14°12・♂♑2°16・♃R♌22°37・♄21°38
♅R♈15°30・♆R♍7°59・♇R♋21°42・☊R♈1°43
 
♐祭りというより、♑祭り。♐の☀と♌の♃。♈の♅による火のトリン。惜しむらくは、♃・♅が逆行しているということ。ホロスコープは、どちらも12時設定。
N☽の位置が確定していませんが、T☽♒6°59と、絶妙を物語っています。
さらに言うと、♑の♄ともコンジャンクションなので、先に起こる凶事を伝えているのかもしれません。

♊N♄と♐T☀・♊N☀と♐T☀オポジション。
♋N☿と♑T☿。♋N☿と♑T♂もオポジション。
♉N♇は、♑T♂と☿。♉N♅は、♑のT♄と、どちらもトリン。
Tの♇は、♋を進み、N♀とコンジャンクション。時代の熟成という所でしょうか。
半面、♓にあるN♆は、T♄とセクスタイル。T☀とはスクエア。♋を進むT♇とトリン。 
Rが多いことも含め、時代の不透明さ、不安定さを彩っている感もあります。 
 
「満州事変を中華民国との話し合いで解決したい」と述べる犬養。長年に渡り孫文や蒋介石といった、中国の革命家を支援していた犬養ならばこそ、できるカードを持っていたのでした。西園寺は、この意向を評価。
満州事変対策として、中国との非公式会談を考えた犬養。しかし、政友会も一枚岩ではありません。対中国強硬論を唱える政友会の人物らによって、中国政府に打診を握りつぶされたそうです。

経済対策は、軍備と経済の協調を図る理論を元に、日本の立て直しを開始。昭和恐慌と世界恐慌から、脱却を図るため、かつての政友会総裁高橋是清を、二度目の大蔵大臣に抜擢しました。速やかに金解禁に停止をかけ、リフレ政策(紙幣をある程度多く刷ることで、デフレ脱却を図る方法)に転じる高橋によって、日本は世界恐慌から抜け出し始めます。

軍縮の主張をしてきたけど、反軍的な政治家ではない犬養。インフレ政策の成功で、かなりの額を、軍に回しました。その甲斐あってか、犬養と日本軍の間は、そう悪くはなかったのです。が、2年前のロンドン海軍軍縮会議の政府調印に、怒りが収まらない者たちもいました。それが三上中尉をはじめとする、一部の若手将校たちだったのです。

先にも述べましたが、日本の社会構造は、明治から昭和初期まで、エリート層と庶民層の二層に別れて進みました。その出だしで、エリートとなる人々は、江戸時代とは、まったく違う、西洋の学問を吸収します。折しも、当時欧米を染めたのは社会主義や、共産主義。これを、精神的、学問的に輸入したのでした。

著しい貧困問題。労働問題等に携わるのは、心ある篤志家や起業家の他、宗教、そして平等と正義、権力への抵抗と開放を旨とする社会主義、共産主義者だったのです。そのため、志高く、平和や人道支援を考える者や、受け皿になろうとする団体も、自然と社会主義的な考え方に染まったのでした。

軍も社会構造の一つです。同じように、エリートと庶民層の壁がありました。ロシア革命以降、ソビエトに警戒しつつも、軍のエリート層や、憲兵のトップには、無意識に社会主義や共産主義思想が、入っていたのです。

第一次大戦による特需が終わった大正後期。日本はかつてない不況に染まっていきました。さらに金融恐慌に、昭和恐慌が続き、犬養が総理大臣になった頃は、国民の政府不信感。権力への抵抗感は強まる一方だったのです。正義感に燃える若者たちは、明治維新を起こした志士のように、現政権を倒して、自分たちの国を樹立する「昭和維新」という考えが、しみ込んだのでした。
 
ロンドン海軍軍縮会議の時、犬養は野党の党首として、条約に調印する民政党を攻撃。
さらに民政党を吊るし上げるために、「統帥権干犯」を持ち出したことで、軍を政府のコントロール下から、遠ざける状況を作りました。(これで満州事変をはじめ、いわゆる軍部の独裁が進んだのです)さらに総理になれば、予算融通。

軍から恨まれる筋はないのですが、複雑な時代背景と、青年たちを取り巻く思想誘導が絡み合い、「条約に調印した政府が悪い」と、三上中尉をはじめとする若手将校たちは、政府の長になった犬養を、暗殺対象に決めます。

1932年5月15日(日)犬養は、総理官邸で休日を過ごしていました。
17時半頃、警備が薄い官邸に、若手将校たちが乗り込み、犬養の姿を見るなり発砲。これは空砲だったため、難を逃れます。

ここで犬養は有名な「話せばわかる」の一言を述べると、土足で生みこんだ青年将校たちを、応接間に通しました。演説で若手将校たちを、説得する気だったのでしょう。女中のテルさんに、人数分のお茶の準備を頼み、若者たちには「靴ぐらい脱いだらどうだ」と述べて、煙草を進めたそうです。
犬養、命乞いする気はゼロ。若手将校たちの方が、興奮状態だったようでした。

「何か言い残すことはないか」という問いに、犬養が答える間もなく、「問答無用、撃て」 の声と共に、9発の銃弾が、犬養を狙ったのです。
そのうちの一発が、頭部に命中。将校たちは、官邸から出ていきました。銃声を聞いて、慌てて駆けつけたテルさんに向かって、「さっき撃った男たちを連れてこい。よく話して聞かせてやるから」と、犬養は海軍将校たちとの対話を求めたそうです。
「9発も撃って、3発しか当たらないとは、軍はどういう訓練をしているのか!」と、心配するのは、そこ?という、動かない標的すら、暗殺できない若手将校の技術の乏しさを嘆く犬養。よほど、日本の事を考えていたのでしょう。

周囲に話すほど元気でしたが、22時を回る頃、吐血。23時半を前にこの世を去りました。
これが現在出ている五・一五事件のあらましであり、高橋是清が行ったリフレ政策の効果が、顕著になる前の出来事です。

現職総理大臣の暗殺という事態に見舞われた政府は、臨時で高橋是清が総理大臣を兼任。
政友会の総裁は、鈴木喜三郎(鳩山一郎の義弟)に決まりました。しかし、独断ではなく、元帥や重臣にも意見を聞いた上で、元老西園寺が、総理大臣に任命したのは、政友会の政治家ではなく、穏健派の海軍軍人斎藤実です。
 
一方、犬養を暗殺した三上中尉たちですが、当然捕縛されました。
当時のメディアは「三上中尉、国家革新運動の精神を力強く語る」「政党財閥を痛撃」「飢える農民のため橘、法廷に泣く(橘孝三郎・愛郷塾主催)」という見出しを付け、心優しき若い青年将校たちが、飢える民の事を嘆き、政党政治や財界を、懲らしめようとする雰囲気の記事を、掲載したのです。これを読んだ庶民は、テロを起こした若い将校たちに同情を寄せました。

経済オンチな政府の生んだ大不況ですが、犬養毅は行った当事者ではなく、すでに悪化した不況を、軽減しようと取り組んだ総理です。その犬養を、殺してしまったことが起き忘れ去られ、減刑運動は盛り上がり、114万以上の減刑署名が集まったのでした。

<民衆よ!この建設を念願しつつ先ず破壊だ!凡ての存在する醜悪なる制度をぶち壊せ!偉大なる建設の前には、徹底的な破壊を要す。吾等は日本の現状を哭して赤手世に魁て諸君と共に昭和維新の炬火を点ぜんとするもの>
(みすず書房/今井精一・高橋正兵衛編「現代史資料4 国家主義運動1」参照)
これは五・一五事件を起こした際の檄文(今でいう、犯行声明)の、ほんの一部の抜粋ですが、革命を起こすために内乱で社会を混乱させ、その混乱に乗じて政権を取るという内容は、当時出回っていた共産党の宣伝文にも似たものがあります。

犬養の暗殺後、高橋是清は蔵相に在任。日銀引受国債の発行に踏み切り、金融融和政策を続行したことで、日本は経済危機を脱しました。昭和恐慌と向き合い、改善を試みたその高橋は、その後、二・二六事件で斎藤実と共に殺されました。次の馬場大蔵大臣による増税で、回復したばかりの日本経済は、再びボロボロになってゆくのです。(この辺は、また別の人の回で)
意図せず、刷り込まれた社会を思う正義感。各時代、各中心人物、問題もありますが、暗殺に走るのは、国のためにも、人のためにもならない。

この経緯を見て、考えさせられます。そして戦前までの日本人、我慢強いとかではなく、鮮烈で気性が激しい半面、自分が攻撃をされてもうろたえない豪胆さを持っていたのです。
犬養もその一人。「話せばわかる」は、命乞いとは程遠い気持ちから出た言葉でした。