東條英機 出生図(Nホロスコープ)

1884年7月30日生まれ 東京府麹町区(現東京都千代田区)12時設定
※戸籍上1884年12月30日 ウィキではこちらが誕生日になっています。
☀♌7°17
☽♍9°43(☽ふり幅3°3~15°31)



第1室(本人の部屋)♌☀・♃・☿    
第2室(金銭所有の部屋)♍♅      
第3室(幼年期の部屋)♎♂・☊R    
第4室(家庭の部屋)♏☽        
第5室(嗜好の部屋)♐         
第6室(健康勤務の部屋)♑       
第7室(契約の部屋)♒
第8室(授受の部屋)♓
第9室(精神の部屋)♈
第10室(社会の部屋)♉♆
第11室(友人希望の部屋)♊♇・♄
第12室(障害溶解の部屋)♋♀R

出生時不明のため、正午設定。ASCとMCは加えず。☽は終日♍で、夜には♆とオポジションとなり、ちょっとミステリアス。
星が半球に揃ったボールタイプ。誕生の時点では、オポジションなし。因みに、彼の誕生日について、資料によっては12月30日記載のケースもあり。(この件は後程)。
第1室本人の部屋☀星座は♌。♃と☿が同室。ボールタイプ自体が、自分の持つ経験や知識などを、フル活用して物事を進めてゆくエネルギッシュな傾向を秘めていますが、パワー星座の♌を背景に、☿と♃が応用力や理性的な着想を援護。効き過ぎると、身の程をわきまえない不遜な奴とみられる言動をとったりもしやすくなります。

金運、縁の巡りは、第2室金銭所有の部屋にある♍♅。それなりに計画は立てるし、特殊技能というか、不思議な魅力もあることから、意外なことで思わぬ収入もあり。だけど大きな出費と、波立ちやすい傾向も含むので、クールな感覚や管理が必要。
知識の部屋ともいわれる、第3室幼年期の部屋は、♎♂と☊Rがあり、知識欲盛んというか、好奇心と負けず嫌いな幼い頃をいろどります。この♂と隣の第4室家庭の部屋♏の☽は、彼の父親(東條英教)の♎♂と♏♀と、絡む不思議な親子縁。
☽が第4室だと、生活環境や家庭環境に、不安定感も出ますが、誕生時の状況が当てはまります。(これも後程)

後は、一気に第10室社会の部屋に飛び、ここを彩るのは触って実感。安定こそ命な♉を背景に、♆というのも、意味深。夢を追う気持ち、ロマンとか好のむので、これがいいと思うと、献身的に進むのでしょう。そこに不必要な悩みが生じて、苦しむこともありながら。第11室友人希望の部屋は、♊を背景に♇と♄という地鎮コンビ。よりどちらかというと、年上にかわいがられる傾向があるので、影響を与える人間次第で、色が変わるのかもしれません。
東條の場合は、それが陸軍士官学校16期生の三羽烏だったようです。
第12室障害溶解の部屋は、守りの♋をバックに、♀が逆位置航行。面倒を見てもらう有難味がわかるゆえに、情深く、奉仕や慈善もいとわないやさしさを持ちますが、安易な同情にすり替わると、厄介。失敗の原因になったり、親しかったはずの相手が手に回るなども起きやすいので、要注意です。

東條英機のホロスコープでRは、愛と美とお金な♀と、社会的人気運な☊となります。

東條英機年表(ウィキ・その他ネット資料を参照)

1884年(明治17年)7月30日陸軍歩兵中尉東條英教(後に陸軍中将)の三男として誕生。三男ということで、里子にだされるが、長男・次男夭折のため、戸籍上の出生は1884年12月30日となっている。
1889年(明治22年)大日本帝国憲法が公布。
1890年(明治23年)番町小学校入学→四谷小学校→学習院初等科。北城尋常中学校(現戸山高校)→東京陸軍地方幼年学校(3期生)。陸軍中央幼年学校→陸軍士官学校へ入学。
1904年(明治37年)日露戦争。
1905年(明治38年)陸軍士官学校卒業(17期生。360人中10番目の成績)。4月21日陸軍歩兵少尉、近衛歩兵第3連隊附。
1907年(明治40年)12月陸軍歩兵中尉に昇進。
1909年(明治42年)伊藤かつ子と結婚(母方の遠縁)
1911年(明治44年)長男誕生。陸軍大学に2度受験するが不合格。
1912年(明治45・大正元年)陸軍大学3度目の挑戦で合格。
1913年(大正2年)父、英教永眠。
1914年(大正3年)次男誕生。
1915年(大正4年)上位成績で陸軍大学を卒業。陸軍歩兵大尉に昇進。近衛歩兵第3連隊中隊長となるが、陸軍省和田亀治歩兵大佐の引きで、陸軍兵器廠・陸軍省の配属となる。
1918年(大正7年)長女誕生。
1919年(大正8年)8月駐在武官としてスイスに単身赴任。
1920年(大正9年)8月陸軍歩兵少佐に昇進。
1921年(大正10年)7月ドイツ駐在となる。10月南ドイツのバーデンにて、永田鉄山らのバーデンバーデン密約に携わる。
1922年(大正11年)陸軍大学の教官に就任。
1923年(大正12年)10月参謀本部員。陸軍歩兵研究員となる。(陸大教官と兼任)。次女誕生。
1924年(大正13年)陸軍歩兵中佐に昇進。
1925年(大正14年)三男誕生。
1926年(大正15年・昭和元年)陸軍大学兵学教官に就任。
1928年(昭和3年)3月陸軍省整備局動員課長に就任。6月4日張作霖爆殺事件。8月陸軍歩兵大佐に昇進。
1929年(昭和4年)5月一夕会発足。8月歩兵第1連隊長に就任。三女誕生。
1931年(昭和6年)8月参謀本部総務部第1課長に就任。四女誕生。
1933年(昭和8年)3月陸軍少将に昇進。
1934年(昭和9年)8月歩兵第24旅団長(久留米)に就任。
1935年(昭和10年)9月関東憲兵司令官・関東局警務部長に就任。
1936年(昭和11年)二二六事件。12月陸軍中将に昇進。
1937年(昭和12年)3月板垣征四郎の後任として、関東軍参謀長となる。7月日中戦争勃発(1945年8月15日迄)
1938年(昭和13年)5月第1次近衛内閣の陸軍大臣となった板垣の下で、次官・陸軍航空本部長に就く。
1940年(昭和15年)7月22日~1941年(昭和16年)10月18日第二次・第三次近衛内閣の陸軍大臣となる。
1941年(昭和16年)10月18日東條英機 第40代総理大臣となる。12月8日大東亜戦争勃発。
1943年(昭和18年)11月。東京で大東亜会議を開く。欧米支配から独立を求めるアジア各国の政治的連合の宣言。
1944年(昭和19年)2月参謀総長を兼任。7月22日サイパン陥落の責任を取る形で東條内閣総辞職。
1945年(昭和20年)8月15日終戦の詔勅(=玉音放送)。次男以下の子どもたちを、分家に出す。9月2日対連合国降伏文書への調印。9月11日拳銃自殺するも失敗に終わる。
1948年(昭和23年)11月極東国際軍事裁判。12月23日 巣鴨拘置所にて死刑執行。享年64歳

東條英機 惑星history ☽年齢域0~7歳 1884~1891(明治17~明治24)年

1884年7月30日。東京府麹町区に暮らす陸軍中尉東條英教と、その妻千歳夫妻の三男として、東條英機は生まれました。(本編はフルネーム。英機。東條のいずれかで表記します)
東條家は安房国長狭郡東條郷の土郷で、江戸時代に宝生流ワキ方の能楽師として北上。盛岡藩に仕えたという家柄です。

父の東條英教は、1855年(安政2年)12月16日生まれ。



第1室本人の部屋   ♐☀・☿      
第2室金銭所有の部屋 ♑         
第3室幼年期の部屋  ♒ ♃       
第4室家庭の部屋   ♓ ♆・☽     
第5室嗜好の部屋   ♈         
第6室健康勤務の部屋 ♉☊R・♇R・♅R 
第7室契約の部屋  ♊ ♄R
第8室授受の部屋  ♋
第9室精神の部屋  ♌
第10室社会の部屋  ♍
第11室友人希望の部屋 ♎ ♂
第12室 障害溶解の部屋 ♏ ♀

☽♓21°なので、前後のふり幅を考えても終日♓。(早い時間の生まれだと、♆とコンジャンクション。ロマンチストな気はありそう)陸軍教導団出身で、下士官から将校となった軍人で、英機が生まれた翌1885年12月。陸大第一期生を主席で卒業。(同期が秋山好古)
優秀な成績を収めた秀才かつ、実力もありましたが、すんなりと出世街道を進めず、中将で予備役となります。

この原因は、長州閥に睨まれたから。英教は終生そう思い続けた、息子の人生にも影響をもたらしました。♃以降の時代の星の影響もありそうですが、「親子」に関して観ると、 
東條英機の第3室(幼年期の部屋)は、♎♂と♅は、父親英教の♎♂とコンジャンクション。第4室(家庭の部屋)♏の☽は、父の♏♀と、絡みます。さらに対岸。♉には父の☊R・♇Rがあります。☽は、生まれてから物心つくまでを観ますが、自分が果たせなかった夢を子に託す等、親の思いの絡むケースもあり、

母の千歳は、北九州の小倉にある万徳寺の住職徳永霊鳳の娘でした。歩兵第14連隊に勤務していた東條英教と、縁があって結婚。1880年と1882年に男の子を産むも、どちらも夭折してしまいます。その原因は自分にあると、悩んだ千歳は、生まれて間もなく里子に出した三男の英機が、家督をつぐために戻ってくると、かなり気を使って育てたようです。 このような経緯から、東條英機は、出生日と戸籍上の生年月日と、二つの誕生日をもつのでした。

☿年齢域7~15歳 1891~1899(明治24~治32)年

就学年齢を迎えた英機少年は、番町小学校に通います。時代は、富国強兵による産業、工業化の過渡期で、日本初環境と健康訴訟といえる足尾銅山鉱毒事件が起きる頃でした。
四谷小学校や学習院初等科と編入学。卒業を迎える12歳の頃、アジアの果てに位置する小さな新興国日本が、大国である清に打ち勝った日清戦争が終わります。世界は第一回オリンピックで沸く年を迎えました。
その後は城北尋常中学校(現戸山高等学校)へと進学。卒業は5年後なので17歳。♀年齢域に入ります。

♀年齢域15~24歳 1899~1908(明治32~明治41)年

1901年(明治34年)尋常中学校を卒業した英機少年。長男として、父親の期待を背負い、東京陸軍幼年学校→陸軍中央幼年学校を経て、陸軍士官学校に進学しました。
日露戦争の勝利に沸く1905年(明治38年)3月。第17期生として陸軍士官学校を卒業すると、同年4月陸軍歩兵少尉の階級が与えられ、近衛歩兵第3連隊に所属。
本格的な軍人生活がスタート。約2年ほどで陸軍歩兵中尉に昇進しました。
もちろん、本人の努力もありますが、日露戦争に向けて、陸海軍共に、環境改善著しい時期に学生時代を過ごしたこともあり、まずまずの♀年齢域機関を過ごした。とみていいかと思います。

☀年齢域24~34歳 1908~1918(明治41~大正7)年

1909年(明治42年)4月東條英機は結婚します。
お相手は、伊藤かつ子さん(以降、かつ子と表記)福岡県田川郡安真木村の長者、伊藤万太郎の娘で、1890年(明治23年)10月8日生まれ。母千歳の遠縁に当たりました。



第1室本人の部屋   ♎☿R・☀・♅ 
第2室金銭所有の部屋 ♏       
第3室幼年期の部屋  ♐ ♀     
第4室家庭の部屋   ♑ ♂     
第5室嗜好の部屋   ♒ ♃     
第6室健康勤務の部屋 ♓       
第7室契約の部屋 ♈
第8室授受の部屋 ♉
第9室精神の部屋 ♊ ♆R・♇R・☊R
第10室社会の部屋 ♋ 
第11室友人希望の部屋 ♌ ☽
第12室障害溶解の部屋 ♍ ♄

かつ子は才女で、日本女子大国文科に通うために上京。その際、保証人になったのが、英機の父東條秀教でした。そのため、東條家をよく訪ねて来たそうです。
人当たりもよく、向学心のあるかつ子は、英機との縁談を進められた際「卒業するまで待ってほしい」と、お断りします。ところが「結婚後も日本女子大への通学を認める」と,いう千歳ママの言葉を信じて、大学3年の春に、結婚に踏み切ったのでした。

ところが、結婚した途端「毎朝5時に起きて、13人が暮らす東條家の膨大な舵を据えて終わらせない限り。学校への登校は認めない」と、千歳ママの、嫁いびりが発動。
嫁いで一月半後、卒業を断念せざるを得ない目に遭ったのです。
二人の子供を失ったショックから、英機へのこだわりが強かった千歳ママ。今の時代なら、ケアの道もあったかもしれませんが、以降も数回のお産で、神経がすり減ったのでしょう。ヒステリーが強くなり、家族中がはれ物に触るような接し方をしていたそうです。

日本女子大を中退したかつ子に対し、その後もきつい態度で接しました。ひどい嫁いびりを、見事に耐え抜けたのは、明治女の気丈さだけでなく、夫の英機が、かつ子を気遣い、優しく接してくれたのが大きかったのでしょう。
かつ子の☽は♌の9度。英機の♃とコンジャンクション。前後6度を考えても、☽星座は♌で、午前中生まれなら、夫の☀とコンジャンクションします。しかも対岸♒には、彼女の♃がこれを受け止めています。

かつ子の♀と、♇のオポジションの先には、英機の♇もあり、双方の♆が共にあるのが、はかなさを添えていますが、お見合い結婚としても、かなり格のある結婚だったのでしょう。♋の♀と♑の♂のオポジションも見事。
近代日本市に出てくる人々の中で、東條夫婦は、おしどり夫婦ランキング上位といっていいほど、仲の良い夫婦です。エリート軍人で、出世した東條。海外勤務経験もありましたので、浮いた話の一つとか、妾がいても不思議のない時代ですが、浮いた話はなく。奥様一筋。それは星も物語っていました。

元号が明治から大正へと変わる1912年。秀樹はついに陸軍大学に合格します。
これは3度目の受験でした1910年(明治43年)1911年(明治44年)と、チャレンジしましたが、落第が続いたのです。
陸大の受験は「陸大がだめでも東大なら受かる」と言われるほど、難易度が高く、日常の任務に就きながら受験勉強を続けるので、受かるのも大変だし、受験勉強の継続するのも大変でした。

モチベも下がりますが、大佐以上の階級に上がる=陸軍で頭角を表すには、将来の幹部を養成する教育機関、陸軍大学に進学、卒業しなければなりません。これは陸大第一期生だった父の強い願いでもあり、英機は陸軍大学合格を目指して、猛勉強するのでした。
何事も努力する東條英機を按じて、試験勉強に協力してくれたのは 陸軍士官学校の一学年先輩たち。小畑敏四郎・岡村寧次・永田鉄山三人でした。小畑は自宅の二階で、東條のために勉強会を開いたのです。
先輩たちの後押しと、長男も生まれた後、念願の陸軍大学への入学できた息子を見て、安心したのか、翌年。1,913年(大正2年)父英教は永眠します。

1915年(大正4年)。31歳となった東條は、陸大を卒業。恩賜の軍刀組からは外れましたが、55人中、11位だったことから、海外勤務の特権を得られる順位内でした。
☀年齢域は、自身の家庭。社会的立場を、しっかりさせる時期でもあり、この頃東條は二児の父となり、陸軍歩兵大尉に昇進。近衛歩兵第3連隊中隊長の任に就くものの、陸軍省和田亀治歩兵大佐の引きで、陸軍兵器廠・陸軍省の配属となります。

東條の☀年齢域は、ハルピンで伊藤博文が、安重根に暗殺される等、明治時代の緞帳をおろす時間に始まりました。日韓併合条約締結。小村寿太郎の奮起によって、関税自主権を回復した後の7月30日。明治天皇の崩御をもって、明治時代の幕は閉じ、大正天皇が即位されたのでした。東條英機にとっては、誕生日と重なる日です。

時代の幕開けは、大正デモクラシー。尾崎行雄や犬養毅による護憲運動を呼び起こし、ヒューマニズムに沸く出版界は活性化。都市部では、これまで庶民に縁のなかった洋装・洋髪が普及し始めます。ダンスホールにモダンガールと、とてもエネルギッシュな大正時代ですが、都市部が華やかになる都度、地方の経済、文化その他、溝が濃くなっていきました。

1914年(大正3年)第一次世界大戦が起こります。
完全に近代戦となった第一次世界大戦は、陸地と海だけだった戦場が、空にも拡張されました。欧州が混乱に陥る中、日本は日英同盟を結んでいることから、ドイツに宣戦布告。
ドイツの植民地である青島、山東省、南洋諸島の派兵しました。
1916年(大正5年)吉野作造が「民本主義」を発表。日本の内閣は寺内内閣となった翌年1917年(大正6年)、ロシア革命が起こります。さらに混とんとする欧州。日本には、日露戦争で獲得した満洲の利益を、奪回したい中国。その中国を含めたアジア諸国の権益が欲しいアメリカの野望と、国家総力戦に直面する可能性が、のしかかってきたのです。

そのため寺内内閣は、袁世凱の後継である北方軍閥の段祺瑞に、多額の借款を与えることで、中国に置ける日本の権限の拡大を強めようと働きかけました。
中国での権益を巡るボタンの掛け違いで、冷え込むアメリカとの関係に、ブレーキをかけるべく、何とかアメリカと手を結びながら、国益の安定を図りたいとする特命全権大使石井菊次郎と、アメリカ合衆国国務長官ロバート・ライジングによる石井・ライジング協約を締結します。

中国利権(満洲利権)については、日本にも問題がありましたが、アジア地域で反日を煽るウィルソン大統領に対する反発は、日増しに強まる一方でした。その半面、苦労人でロシア革命成功後は、富裕層から奪った金品その他を、惜しげなくふるまうレーニンへの人気が高まったのです。

石井・ライジング協約を、結ぶことはできましたが、日本国内で、何とかアメリカと手を結びながら、国益の安定を図ろうとする石井大使の考えが、理解された状況ではありませんでした。寺内内閣は、日本兵のシベリア出兵にも乗り出しますが、これも不評を買う事になりました。

♂年齢域34~45歳 1918~1929(大正7~昭和4)年

東條家に長女が生まれる1918年(大正7年)日本国内が戦場になるわけではないため、当初一般的には、ピンと来ないまま、戦争特需を迎えた第一次世界大。数年の間、潤っていましたが、戦争の終焉が近づく頃、風向きが変わり始めました。
市場はインフレとシベリア出兵を見越した米の買い占めが進み、米の値段が急上昇。

富山県の漁村に住む主婦たちによる、米の安売りを求める活動が報じられると、たちまち全国で米騒動が起きて、小作人の小作料引き下げまで引火したのでした。これにより、寺内内閣は退陣。9月29日本格的政党政治内閣として、原敬内閣がスタートします。
「平民宰相」と呼ばれ、国民受けした原敬ですが、華族ではないというだけで、実家は盛岡藩の家老職や側用人を務めていた家柄です。

1919年(大正8年)8月単身スイスに赴任した東條英機は、1920年(大正9年)8月陸軍歩兵少佐に昇進。1920年(大正9年)には、ドイツ駐在となりました。
同年10月下旬。南ドイツにある保養地バーデン=バーデンで、陸大受験の際、世話になった三人の先輩。小畑・岡村・永田と再会します。

小畑は第一次世界大戦下のロシア軍に従軍。1920年には、ロシア大使館付武官となりますが、日本軍がシベリア出兵していた関係で、ロシアに入ることができず、ベルリンにいたのでした。岡村は、欧州出張。永田はスイス公館付武官を務めていました。
彼ら三人(16期の三羽烏と呼ばれている)は、元々、問題意識も高く、社会に対しての理想も抱くタイプで、人望もありました。

長州閥が仕切る今の陸軍の情弊に、非常に憤慨し、軍の構造改革が必要だ。という思いを抱き、同窓会も兼ねて、話し合うために集まったのです。この対話は「バーデンバーデンの密約」と呼ばれ、東條英機は翌日に参加しています。
話し合ったことを要約すると、下記の2点。
・陸軍上層部を牛耳っている長州閥の打倒と、有能な同志の擁立
・満蒙問題の解決

永田や小畑のように、社会への理想や、明確な国家ビジョン。思想があったか、そこは不明な東條ですが、この密約を契機に、陸軍の人事や国家総動員体制の構築を目指した活動は、本格的となるのでした。
1921年(大正10年)中国共産党が、中華民国で結党。山縣有朋が死去。10月には、原敬が東京駅でテロリストによって暗殺される事件が起きます。恐らくですが、東條この頃、東條は任務を終えて帰国。翌年1922年(大正11年)11月、陸軍大学の教官となりました。

12月にソビエト社会主義連邦共和国が誕生。
関東大震災によって、東京は壊滅的な被害を受けた1923年(大正12年)10月。陸軍参謀本部員と陸軍歩兵学校研究部員を兼務となった東條英機は、翌年、陸軍歩兵中佐に昇進。
1925年(大正14年)には、三男も誕生。家庭内が賑やかになります。
1926年(大正15年)12月25日。大正天皇の崩御、昭和天皇の即位によって、元号が変わる年ですが、世相も軍部内も大きく変わってゆく兆しの時でした。
東條英機は、陸軍大学の兵学教官だけでなく、陸軍省軍務局軍事課高級課員へも就任と、出世街道を駆け上がりつつ、永田達が開催する勉強会にも、積極的に参加します。

1927年(昭和2年)関東大震災後に発行された手形が、支払い不能の不良債権と化してきた事から、若槻内閣は日銀にこれらを引き取るモラトリアム措置を行いますが、その継続を巡る審議中に、大蔵大臣片岡直治の「渡辺銀行が、本日破産した」と失言。これがきっかけで、銀行がつぶれる前に、預けていた預金をすべて下ろそうと、国民が銀行に押し寄せる金融パニックが、国内に起こります。これが昭和恐慌の出だしでした。

世の中が昭和恐慌で騒然とする中、永田が結成した「二葉会」に東條は入会します。これは陸士15期~17期生の陸大出身者10名からなる集団で、人事問題や国家総動員体制の樹立を研究するグループでした。同時期に「木曜会」も立ち上がります。
東條たちの後輩に当たる陸士第21~24期生の、石原莞爾少佐に鈴木貞一少佐といった、若手将校たちが結成したグループで、主に満蒙問題の研究をしていました。永田と石原。国家ビジョンは違うものの、満洲領有の必要性は一致していたのです。

1928年(昭和3年)3月の会合で「満蒙に完全な政治的勢力を確立させること」が決まりますが、東條も参加しました。この構想は、1931年満州事変で実体化しますが、会合から3か月後の6月に、張作霖爆殺事件奉が起きるのでした。

♃年齢域45~57歳 1929~1941(昭和4~昭和16)年

若槻内閣では大蔵大臣の失言から、国民が金融パニックを引き起こしたことから端を発する金融恐慌を、何とか収めたのが、若槻内閣総辞職後に発足した、田中儀一内閣の大蔵大臣高橋是清でした。ところが、外交問題で田中内閣が退陣。
1929年(昭和4年)発足した浜口雄幸内閣は、大蔵大臣を井上準之助に交代させ、「お金厳しいなら節約でしょ」「無駄遣いをやめよう」「身を切る改革でしょ」と、財政と金融の緊縮政策に舵を切りました。さらに翌1930年(昭和5年)お金の量を減らすデフレ対策(金解禁)を実行。これによって、経済安定ではなく、日本は激しいデフレ&空前の大不況に陥ったのです。

第一次世界大戦後、アメリカが金本位制に復帰すると、欧州各国も、金の解禁を緩めました。日本は関東大震災もあって、機会を逃していたのです。濱口内閣としては、ここで出遅れを取り戻す感も、あったのですが、悪いことは重なりやすく、世界恐慌のタイミングと、重なってしまいました。
割り高なレートで金の解禁を行ったことで円高が進み、その為替相場を維持しようと、緊縮財政を行ったことから、さらにデフレが進んだのです。物価と賃金は大暴落。
農産物の価格が下がり、企業の倒産が進めば、失業率も上がりました。

さらに東北方面の大飢饉。とんでもない状況が、国民を襲ったのです。
ニューヨークの株の暴落も、深刻な一因ですが、濱口も井上も、デフレ打開策を取らず、「ぜいたくは敵」「厳しいときは倹約」の政策を続け 経済難を重症化させたのです。
地方の農村・漁村では、娘を売らないと家族が飢えてしまう家も多発。徴兵制でもありましたが、軍に入れば、なんとかご飯が食べられる。仕送りができることもあって、次男三男は、軍人になる者もいました。

東条英機が歩兵第一連隊隊長に就任する1929年(昭和4年)。世相はこのように厳しい状況があったのです。東條の先輩永田の作った「二葉会」。石原達後輩が作った「木曜会」が、合流して「一夕会」となったのは、そんな不況風が吹く時代でした。

将官へ昇進するために、現場の部隊に入る必要もあって、歩兵第一連隊の隊長になったのですが、東條の階級は大佐。この当時、大佐と兵卒の地位は、完全に隔絶。
兵卒からすれば、連隊長とも、顔を見る機会等、なかったのです。
学生の頃から恐ろしいほどのメモ魔な東條。なんでもメモし、暗記するという癖を持っていた東條は、自分の部下となる将校全員の、身上調書を取り寄せて、経歴・家庭環境・要望等必要と思われる情報を暗記しました。

連隊長に赴任すると、陸大受験を希望する少尉・中尉の隊務負担を減らしたり、兵卒たちの声を聴き、食事と健康に気を配ったのです。
東條の行ったことは、連隊長として異例中の異例行動で、当初周囲は仰天。やがて多くの兵卒に慕われ「人情連隊長」と呼ばれました。 
1931年(昭和6年)46歳で、参謀本部総務部第1課長に栄転。長州閥のドン山縣有朋が亡くなり、その地盤を宇垣一成大将(岡山出身)が引き継いで約10年。宇垣は大派閥を作ったものの、「一夕会」の突き上げに遭って勢力が衰えたことも背景の一つでしょう。

1931年(昭和6年)9月既に満州入りして久しい、「一夕会」の板垣征四郎大佐と、石原莞爾中佐が、関東軍を手動して柳条湖事件を皮切りに、満州事変を起こしました。
約半年で、関東軍は満州を制圧します。これには濱口内閣を追い込むために、犬養達野党が、統帥権干犯問題を議案にあげたによって、政府が軍部の統制がとれなくなったも追い風になりました。

翌1932年(昭和7年)3月1日には満洲国を建国します。
全てが理想通りではなかったものの、「一夕会」は満洲の領有という目的を達成。その勢力も拡大しました。当初は連携していた石原と東條でしたが、多少強引でも天才肌で実行力。アクと華のある石原。政治理念。国家ビジョンの構築のない常識人。だけど。会議では三つのメモ帳を使って、メモを作成。的確な示唆や、質問を投げかける東條。
性格の違いは、言動の違いにつながり、自然と疎遠になりますが、永田はこの二人を見事に使い分けました。

同年5月。前政府への不満と、改革意識に燃えた海軍将校たちによって、この時総理であった犬養毅が、官邸で暗殺される五・一五事件が起きます。
犬養内閣が組閣される際、手腕を買われて再び大蔵大臣となった高橋是清は、金の輸出をすぐに停止させました。デフレを脱却するために、必要な範囲でインフレを起こすリフレ政策を実施します。これによって、日本の経済は一番底を抜けるので、犬養内閣として、大きな実績でした。しかし、効果が出てくるのには、ある程度の時間が必要で、世の中的に、それを実感できる前に、犬養はテロに遭ってしまったのです。

実行犯の青年将校たちに対し、マスメディアは非常に同情的で、彼らの主張、国を思う気持ち、生い立ち等を報じ、政府の失策による経済不安の影響を受けた多くの庶民は、「世直しのために、若い将校たちが頑張ってくれたんだ」と、これに同調。
若い青年将校たちの嘆願署名運動が、国内で起きたのです。

陸軍内では、犬養内閣の陸軍大臣を務めた荒木貞夫を中心とした「皇道派」が台頭。かつて16期生の陸軍三羽烏と言われた一人、小畑敏四郎が、その中枢にいました。対ソ連・支那事変を巡って、参謀本部第2課長だった永田鉄山と、小畑の間で激しく意見対立したこともあり、を天皇親政の下での国家改造を目指すという「皇道派」に、反発する者たちは、永田を中心に「統制派」にまとまっていきます。

永田鉄山は、陸軍の主張を政治・経済の分野に浸透させた国防国家の建設を提唱。そのためのパンフレットも作成するクリエイティブな人でした。ドイツの陸軍軍人エーリヒ・ルーデンドルフの「政治支配と総力戦計画」に魅せられた人でもあり、近衛文麿と東條が交流したのも、近衛の「国家総動員法」にも一役買っています。

1933年(昭和8年)3月陸軍少将に昇進する東條ですが、激しさを増す「皇道派」と「統制派」の対立によって、永田と共に参謀本部を去り、近衛歩兵第1旅団に転出。その後、東條は九州小倉にある第12師団への転属となりました。
1935年(昭和10年)「皇道派」と「統制派」の対立が激化し、ついに8月12日昼下がり。なんと陸軍省内で、永田鉄山は暗殺されます。加害者は「皇道派」の青年将校相澤三郎中佐。東條は第12師団司令部(小倉)で、この凶事を知ります。20年来の付き合いがあり、自分のまじめさを買ってくれてた、大先輩永田の死に涙を流しました。

9月21日ほぼ左遷の意味を含んだ人事でしたが、関東憲兵隊司令官兼関東局警務部長の任に就くため、東條英機は、日中戦争真っ只中の大陸に渡ります。憲兵隊は軍警察と治安維持。防諜が主な任務でした。東條は憲兵隊の意識改革を起こし、関東軍の将校の中に、コミンテルン(共産主義)へ心酔し、その活動を行うものを多数検挙しました。
1936年(昭和11年)2月26日「昭和維新」を掲げた「皇道派」の青年将校たちは、1,483人の下士官を率いて、二・二六事件を引き起こします。
5人の重要閣僚の命を奪ったこのテロは、昭和天皇の強い怒りを買い、「皇道派」は、事実上失脚しました。陸軍の主導権は、「統制派」が握ります。

「皇道派」を支持し、二・二六事件に呼応する者がいるかもしれない。そう考えた東條は、憲兵を利用して、可能性のある関東軍。皇道派や民間人を検挙しました。永田の腹心であり、憲兵隊司令長官の実績が下地となった東條は、「統制派」の地盤を引き継ぎます。
12月1日中将に昇進。翌1937年(昭和12年)3月1日関東軍参謀長に就任という、左遷ポストからの返り咲きを果たしました。

関東軍のトップとなった東條は、満洲国総務庁次長の岸信介。南満州鉄道株式会社総裁の松岡洋右と、満洲国の経営にも関与します。他には、国務院総務長官星野直樹。満洲重工業株式会社社長鮎川義介も加わり、「弐キ参スケ」と呼ばれますが、7月7日中国盧溝橋事件に端を発した日中戦争が勃発し、様相が変わりました。
8月9日~10月17日察哈爾省・綏遠省で起きた察哈爾作戦に、師団長として参戦した東條は、した。大きな戦火を上げるものの、兵站を甘く考えたことから、補給が間に合わず、戦場で飢えに苦しむ士官が続出したのです。

欧州の情勢も変わりつつありました。日独防共協定を結んだナチスドイツは、ユダヤ人への迫害政策を、強めていきます。悪化する迫害に、行き場を失うユダヤ人たちを、受け入れたのが、ソ連でした。しかし、逃げてきたユダヤ人たちが、農業政策には、全くの不向きとわかったソ連は、彼らをあっさりと極寒の地に見捨てます。欧州に戻ることのできない彼らは、海を越えてアメリカへの亡命を考えますが、そのためには、上海租界に到着しなければなりません。上海租界にたどり着くには、満洲国を経由する必要がありました。
1938年(昭和13年)3月こうしてソ連国境下であるオトポール駅に、18人のユダヤ人が、到着したのです。

ドイツの顔色を伺う満洲国外交部は、彼らの満州国入りを拒否。難民キャンプと化したオトポール駅の状況を見かねた樋口季一郎少将は、満鉄総裁の松岡を口説きます。
松岡の計らいで、18人のユダヤ人は、特別列車で上海に到着。これは杉原千畝の「命のビザ」の2年前に起きた出来事でした。その後、この経路は「ヒグチ・ルート」と呼ばれるようになり、多くのユダヤ人たちが、上海からアメリカへ逃れたのです。

しかし、ドイツがこれを黙っているわけはなく、当然のように、日独間の外交問題に発展します。この件で樋口と対面した東條は、彼に懲罰を与えず、人道支援を止めるように命じませんでした。それどころか、激しく攻め立てるドイツ外相の非難を、完璧にスルーしたのです。樋口季一郎が、ユダヤ人たちの命を救うことができたのは、東條英機の理解という後ろ盾があってこそでした。(この件は、樋口季一郎の回でも書いています)

その後、東條は帰国。5月30日第1次近衛内閣の陸軍大臣板垣征四郎の下で、陸軍次官、陸軍航空本部長に就任します。陸軍次官は、陸軍大臣に次ぐ官職でした。
大臣も次官も、参謀本部と共に、日中戦争を主導することが求められます。参謀総長は、皇族軍人閑院宮載仁親王大将。参謀次官は多田駿中将。総長が皇族軍人のため、実権を持たないため、実質多田が執務を仕切っていた参謀本部でした。
近衛内閣は対中和平工作(トラウトマン工作)に取り掛かるものの、自ら打ち切る道を選びます。(この辺りの経緯は、近衛文麿の回で書いていますが、近衛内閣の中枢には、ソ連のスパイ尾崎秀実が、そうと悟られることなく、敗戦革命を実体化させるための、日中戦争の長期化と、大東亜戦争を起こすよう、画策します) 

アメリカとイギリスが、蒋介石を支援していたのも一因ですが、日本では、 戦争の長期化など望まない昭和天皇。参謀次官の多田も、戦争不拡大派です。軍内の多くは、日中戦争強硬派で、それは東條も同じでした。それが国のためだと信じていたのです。
天皇陛下のために。国のためにという、強い思いのために、戦争を望まない陛下の声を聴けず、「戦時統制経済」が続けば続くほど、国内に不満や不安も溜まります。その熱を、「統制経済」に変えて、そのまま共産主義社会にすればいい。そう考え、具体化のためにと思う者たちはその存在にも気づかず、戦争の継続に利用されて、泥沼の一途とかす日中戦争でした。

さらに関係がずっと悪化しているアメリカから、日米通商航海条約を破棄されます。こうすることで、アメリカとイギリスは、東南アジアの植民地から、軍事物資を支援輸送する援蒋ルートを構築。さらに日本の戦争追行能力を低下させるため、経済制裁にでたのでした。目先の問題に困る日本は、打開策を模索します。しかし、大統領のフランクリン・ルーベルトが抱く野望。そのはるか背後ある共産化革命への計画には、気づかないままでした。

多田と東條は、当然のように対立し、何も決まらない状況に困った陸軍大臣板垣は、二人の役職を解きました。こうして東條は、陸軍航空総監に任命されたのです。
♃年齢域の仕上げともいえる1940年(昭和15年)6月。ドイツがフランスに侵攻し、敗北させたことを受けて、固唾をのむイギリス。日本は援蒋ルートの一つ、フランス領インドシナ(仏印ルート)を潰せる好機と捉えて動きます。そこに近衛内閣が誕生。東條は、第二次近衛内閣の陸軍大臣となり、再び官職につくのでした。

しかし、近衛内閣の主導する日独伊三国同盟の締結。大東亜共栄圏の確立宣言は、さらなる日米関係悪化させます。インドシナに侵攻されたことで、フランスも日本に対して、快く思うはずがありません。陸軍としては、北進をしてソ連の侵攻を止めたい思いがありましたが、政府は「南進」を選択。(これについては、近衛文麿の回をご参照ください) 

♄年齢域57~64歳 1941~1948(昭和16~昭和21)年

1941 (昭和16年)7月28日資源不足に悩んだ日本は、インドシナへ進駐。すぐ近くに植民地のフィリピンを持つアメリカは、日本への石油輸出を完全に禁止しました。近代化を進めた日本は、軍事や工業だけでなく、あらゆる社会構造、生活の場面で、既に石油が切り離せない国になっていました。節約したところで、備蓄量は、1年ほど。工業や流通が立ち行かなくなれば、たくさんの失業者を生み出します。
輸入の8割をアメリカに頼っていた日本は、最悪の事態を回避するため、アメリカに交渉を求めました。

態度を変えないアメリカに対して、状況打開のために「帝国国策遂行要領」を、作成する陸海軍。米英との和平交渉の期限を、10月上旬に区切り、要求が認められない場合は、米英との開戦を決定するという内容を、飲むしかない近衛は、9月3日に同意。
6日の御前会議で、これが国策として承認されます。

何かと問題を感じる近衛ですが、開戦を避けるために、この時は日米首脳会談の要請を積極的に行いました。がアメリカ側からは、何の返答もないまま、月が替わって10月2日。
フランクリン・ルーズベルト大統領が、「日米首脳会談の拒否」を日本に通達。
これで「帝国国策遂行要領」にある「米英との和平交渉の期限を、10月上旬に区切る」が、実質不可能となったのです。

ルーズベルト大統領は、「アメリカが攻撃をされない限り、戦争への参戦はしない」という反戦を選挙公約に掲げ、三度目の当選を果たしていました。当時のアメリカは、経済政策に失敗し、深刻な失業問題に頭を抱え、これを解決する必要に迫られています。
イギリスのチャーチル首相は、欧州を席巻するドイツ(ナチス軍)の侵攻に、手を打ちたい思惑がありました。この二国のトップに対し、入れ知恵もあったと思いますが、どちらも解決策として、アメリカが第二次世界大戦に参戦が得策と考えます。

しかし、公約があるため、アメリカは自主的に参戦ができません。そこでシナリオを、描いたのです。アメリカに対し、先制攻撃を行う国が現れれば、報復という名目が立ち、アメリカは堂々と第二次世界大戦に参戦できると。
その先制攻撃を行う国、アメリカと揉める国として、選ばれたのが日本でした。
明治時代と違い、イギリスとアメリカ、どちらの国も、日本との関係が冷えていたこと、それ以上に、差し迫った双方の事情と欲望が、基ともいえるでしょう。

よもや、相手がそんなことを考えているとは、考えもしなかった日本ですが、ルーズベルト大統領は、日本と和平について話し合う気はなかったのです。
状況を甘く見ていた近衛の誤算も大きいですが、満州事変から今日までの10年間。終戦のチャンスを自ら逃しつつ、日中戦争を続けてきた日本は、さらに英米をも相手に開戦することになったのでした。

軍は戦争を起こすこと、戦うことはできますが、和平交渉はできません。
どの国に仲裁してもらうか、どのタイミングで和平交渉を切り出すか、条件はどうするかといった事をまとめ、戦争に終止符を打つのは、政治の仕事なのです。
かつて日露戦争で、国力7倍差のロシアを相手に、日本が勝てたは、前線で戦う軍人たちのポテンシャルの高さと、戦略・努力も大きいのですが、桂内閣と陸海軍は、非常に良い連携を取りました。児玉源太郎の終戦の機を逃さない目は鋭く、これを受けて内閣の指示で、アメリカへ飛んだ金子堅太郎は、若い頃学友だったセオドア・ルーズベルト大統領と交渉。日露の仲裁役として、アメリカに入ってもらうことに成功しました。このプロセスは、とても重要で、戦争終結の黄金比率といってよいでしょう。

日清戦争も、伊藤内閣は陸奥宗光が交渉役として、話をまとめたのです。
大東亜戦争直前の昭和は、そのような人材がいない。統帥権干犯問題によって、政治が軍のコントロールを失った事が、大きな原因となりました。
統帥権を言い出したら、伊藤博文や桂太郎も引っ掛かりますが、彼らは大日本憲法を作った時代の人たちで、よもやこんな問題が起きて、軍のコントロールを失うとは、夢にも思ってもいないし、いい意味で、知るか!そんなこと、開き直ることもしたでしょう。
法が整備され、既にある決まり事に沿って生きる者は、目線も気持ちも違います。

近衛には戦争回避のチャンスはありました。米英嫌悪と、マルクス主義への憧れと、高いプライドが、その機を逃したのです。交渉期限を過ぎた10月16日。
万策尽きた近衛文麿は政権を放り出し、18日内閣総辞職をしました。
同時進行でゾルゲ事件の捜査が進展し、側近だった尾崎秀実・西園寺公一が逮捕されます。知らなかったとはいえ、内閣にスパイがいたことは重く、日本にとってあまりにも大きなマイナスでした。日中戦争を長引かせ、米英と対峙する状況を選択してゆく背後には、尾崎らの影響があったのですから。近衛が辞任になるのは筋でもありますが、
「私は戦争に自信はない。自身のある人にやってもらわねばならん」と言った言葉が、なんともです。日本が大東亜戦争に向かい、悲惨的な敗戦を迎えた日本側の理由は、軍部にも問題はありました。が、そうなるきっかけを作ったのも、外交戦略がもろく、中枢に虫が入ったのも、政治力の欠如が、大きかったのです。

近衛と東條は、次の総理に、皇族軍人の東久邇宮稔彦王を、推薦しました。内大臣の木戸幸一は、これをあっさり却下。開戦時の総理大臣が皇族だと、それはそれで問題になるとして、木戸は、なんとここで対米開戦強硬派の東條を、総理大臣に推薦したのです。
まさかの任命に、一番驚いたのが、東條英機自身でした。

生まれも育ちも軍人一筋。国のために働くのはともかく、政治家になる気など、毛頭なかったのですから、驚くのも無理はありません。木戸が東條を選んだ理由として、「東條は、昭和天皇への忠誠心が、並外れている。東條なら、陛下の意向に沿って開戦回避に全力を尽くす」でした。
「対米開戦回避へ力を尽くすよう」昭和天皇から指示された東條、自分の考えと180度真逆の命に、素直に同意。大陸から撤兵を行うため、自らが内務大臣と陸軍大臣を兼任。総理大臣就任と共に、陸軍大将に昇進します。

外務大臣に東郷茂徳(和平派)。商工大臣に岸信介を起用。自分の意志とは真逆な、和平への道を実現するため、東條内閣を発足。1941年(昭和16年)10月18日~1944年(昭和24年)7月22日サイパン島陥落によって辞任するまで、東條は総理大臣として、日本のかじ取りを担ったのでした。

先に決めた「帝国国策遂行要領」を白紙にする交渉を開始しますが、参謀本部も海軍も断固拒否。それでも粘りまくった東條は、対米開戦の決定を、12月1日に遅らせることができました。対米交渉の中で、特に難関だった支那からの撤兵要求にも、中国国内の治安確保を継続しつつ、長期的に撤兵という妥協案をまとめます。日独伊三国同盟に関しても、形骸化をにおわせて、日本としてできる限りの譲歩案を日米交渉案として立案。

これまでの対米強硬派の東條を知る者からすれば、この方向転換は、ビックリですが、戦争回避を希望する、天皇陛下の意志を実現するため、彼は尽力をつくしたのでした。
甲と乙の二案を交渉の武器として、アメリカ駐日大使野村吉三郎に打診します。ところが、暗号で送った内容は、すべてアメリカ側に傍受されていました。
日本の出方を知ったコーデル・ハル国務長官から、11月26日。乙案に対する最終返答が、日本側に通達されます。(ハルノート。議会承認を得た公文書ではなく、ハルの考案しもの)
・日本は、ハル4原則を尊守すること
・日本は、支那・フランス領インドシナから全面撤退。
・日本は、中国支配を強めるために樹立した汪兆銘政権を否定する事。
・日本は、三国同盟を死文化する事。
これを受け入れたら、日本国は戦わずして敗戦に等しいものが羅列されていました。

日本側がこの内容を蹴って、日米開戦しか道がない状況に追い込む。これが、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトの希望であり、国務長官ハルの狙いであり、その背後には、長引く戦争と経済苦境で国が弱体化し、敗戦すること。その過程で、自国に不信、不満を持つ民衆が増えることで、共産革命を起こしやすくなることをもくろむレーニンが、いたのでした。

交渉に臨んだ結果、道を閉ざされた日本は、中華民国だけでなく、アメリカ合衆国・イギリス帝国・フランス・オランダ王国の連合国との戦いを選択。
12月1日の御前会議で、日米開戦を行うのは12月8日と決まりました。
昭和天皇の思いを叶えられなかった東條は、6日の深夜。軍服を着たまま皇居の方角を向いて正座、号泣したそうです。これはその姿を観た、かつ子夫人の回顧ですが、彼の昭和天皇を思う忠誠心は本物でした。

こうして12月8日マレー戦線と真珠湾攻撃から、大東亜戦争が始まりますが、日本側は、攻撃を行う為の、念入りな準備を進めています。タイムスケジュールとして、開戦の30分前には、アメリカのハル国務長官に、国交断絶の通告を渡す予定でした。
そのため外務省は、6日の段階で、日本大使館に「これから重要な外交文章を送るから準備をしておくように」と、予告電報を送っています。その上で、現地時間12月7日午後1時に、アメリカへ手渡さなければならない公文書「対米覚書」を送りました。

ところが、12月8日当日、山本五十六司令官率いる日本海軍連合艦隊は、ハワイ真珠湾に停泊していたアメリカ太平洋艦隊を、無警告で攻撃しまったのです。
「奇襲攻撃後に、断行通知を持ってきた日本ほど、卑劣なで悪辣な国はない」と、ルーズベルト大統領が主張。反戦ムードだったアメリカ国内は、一気に戦賛成。日米摩擦もあったことから「日本を叩きつぶすことが正義」と熱が上がりました。

外務省からの、予告電報を受け取ったその日。日本大使館の職員たちは、同僚の送別会を行うため、総出で引き上げていて留守だったのです。これで国交断絶の通告となる「対米覚書」の解読が遅れました。その上で、解読に手間を取った大使館員たちは、外務省に相談することなく、アメリカ側に「約束の時間を、あと1時間伸ばしてほしい」と、独断で頼み込んでしまったのです。
はるか洋上で、攻撃準備をしている連合艦隊に、そんな予定変更が、瞬時に伝わる術が、あの時代はありません。こうして日本海軍は、予定に沿って砲撃を開始しました。

大使館側が「対米覚書」をハル国務長官に届けたのは、同日の府午後2時20分。真珠湾攻撃が終わった1時間後です。
日本大使館側のとんでもないミスによって、「卑怯な奇襲」と、ルーズベルト大統領に、言わせてしまった真珠湾攻撃。これは第二次大戦に参戦できる口実が欲しいアメリカにとって、好都合な現実でした。
東京裁判において、日本が無通告で攻撃を行ったのではなく、事前通告の意思と準備はあったことは認められます。が、日本に有利な真実。正しい事実は、歴史の授業で習うことなく、「リメンバー・パールハーバー」の精神が長く世界史を飾ってきたのです。

真珠湾攻撃によるアメリカ側の戦死者数は、2,324名。民間人死亡68名という記録がありますが、アメリカはかなり早い段階で、我が国の暗号文章を解読していました。ルーズベルト大統領とアメリカ政府首脳は、「対米覚書」の中身も知っていたなら、なんで自国民や兵士を守らないの? という疑問も出てきます。

12月8日は、現地時間で12月7日日曜日。現地の太平洋艦隊司令官は、ゴルフを楽しむ予定だったそうです。日本との開戦の情報を、本国から受け取ったのは、攻撃が終わってから、約6時間後でした。この日、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトは、ホワイトハウスに家族を招いて、優雅な食事会を楽しみながら、「戦争が始まるよ」とほのめかしていたそうです。
アメリカがハルノートを日本に通告した直後、新鋭艦と共に2隻の空母が、真珠湾から離れています。日本が攻撃をした時、港に残っていたのは、旧型戦艦ばかり。主要艦である空母はなかったのです。

かくして「卑怯者」と言われつつ、戦争は開始されました。
12日の閣議で今回の戦争は、支那事変(日中戦争)も含めて、「大東亜戦争」と呼称することが決まります。第二次近衛が掲げた「日本がアジアの国々と、共存共栄を図る」という構想。大東亜共栄圏が基でした。それ故に、欧米諸国からの植民地解放という、エンドマークの付けづらい、戦いになってしまったのが否めないのです。

戦争が始まる頃、東條はアメリカ在住の日系二世向けて、「アメリカで生まれた日系二世は、アメリカ人として、祖国アメリカのために戦うべきである。何故なら、主君のため、祖国のために戦うのは、即即ち武士道なり」と、メッセージを送りました。武士道を重んじる軍人であるからこその内容であり、彼の人柄も伝わる文面です。
大東亜戦争の序盤、日本軍快進撃を重ね、1942年(昭和17年)初頭。日本は東西7000㎞。南北5000㎞の広大な戦域を得たのでした。連勝すれば、気も大きくなる分、欲も出ます。任期1年延長した衆議院選挙も、4月に行われますが、終戦の話をまとめることはなかったのです。

6月5日ミッドウェー海戦で、手痛い敗北を期します。ガダルカナル島の戦いも、1943年(昭和18年)2月7日に敗北となりました。5月には、アメリカ領アラスカ州西に位置するアッツ島で、日本の守備隊が全滅する悲劇が起きます。(アッツ島の悲劇・キスカの脱出については、樋口季一郎の回で書いていますので、ご参照下さい)
日本軍が押されてゆく中、アリューシャン列島の戦いで、無傷に近いゼロ戦、アメリカ軍に奪われるなど、戦局は悪化。

会議の場で戦争の経緯に対する疑問や示唆を投げかけることはしても、代替え案やビジョンを、示すことはない東條の指導力に、各方面から疑問の声が上がります。この頃は人の見る目のなさが如実に出た時期で、反東條派に対して、憲兵隊を使って拘束等、熾烈なことを行い、東條のマイナス評価が着きやすい時期でした。
軍事官僚として実務に優れている=国のトップに立つのに向くとは限らないのです。

一方で、日本軍の支持の下、ビルマ(現在のミャンマー)やフィリピンでは、欧米列強からの独立宣言が進みました。インドでは自由インド仮政府が樹立するという現象が始まり、大東亜戦争の主旨が、顕現化してゆきます。
新たな外務大臣重光葵の提案で、東條は11月5日から東京で、大東亜会議を開きますした。タイ王朝や満洲国王。ビルマ国王とフィリピン大統領も参加。オブザーバーとして、自由インド仮政府代表チャンドラ・ポースが出席する、世界初有色人種の国際会議です。

各国は「お互いの国尊重し、それぞれの民族が歴史と文化。伝統を活かしながら、文化交流を深め、経済関係を強化することで相互に発展し、世界各国とも進んで仲良くすべきである」という内容で大東亜共同宣言を採択しました。
この会議と宣言は、歴史的にも有意義であり、1960年(昭和35年)第15回国連会議において、植民地独立宣言が議決しますが、その時の宣言内容は、この大東亜共同宣言とほぼかぶります。ただ、開催した時代は、世界大戦真っ只中。日本を支持する同盟国からは、評価されますが、植民地を奪われた連合国が、賞賛することはありません。
戦局はさらに悪化の一途だったのです。

1944年(昭和19年)2月17日トラック島にあった日本海軍基地が、連合軍によって、完全壊滅となりました。これを受けて、東條は軍令を司る参謀総長も兼任しますが、やり方が強引なため、軍内にも反発を高めてしまうのです。
どうにもならない状況下、総理大臣OBの岡田啓介予備役海軍大将や、平沼騏一郎枢密院議長たちは、東條内閣倒閣運動を水面下で展開。近衛文麿も、一枚噛んでいて「すべての責任を、東條に負はしめる方がよいと思ふ」と、彼は暴論を述べています。
6月14日マリアナ沖海戦の大敗。7月6日サイパン島の戦いで、絶対防衛権を破られた日本は、アメリカ軍による本土攻撃を、可能にしてしまいました。

内閣改造で難局を乗り切ろうと考えた東條は、内大臣木戸に意見を求めます。
東條が陸軍大臣と参謀総長の兼任をやめることと、海軍大臣の更迭。重臣(総理大臣OB)を、入閣させる案を木戸は提示します。開戦直前に、東條を総理に押した木戸ですが、この頃東條内閣倒閣運動のメンバーでした。近衛とは学友でもあった彼は、戦線の総理大臣は、閣僚を罷免させる権利がない。閣僚内での意見の不一致があれば、内閣は総辞職するというルールを活用し、東條が相談に来るのを、待っていたのです。

木戸たちが描いた台本に気づかないまま、東條は彼のアドバイスに沿って、海軍大臣を辞任させ、さらに岸信介の元を訪れました。無任国務大臣に格下げとなっていた岸は、東條から辞任の要求を拒否。憲兵隊を差し向けて脅かしても、ガンとして拒否を続けます。
既に重臣たちから、大臣の辞任をしないよう、岸にも話が回っていたのでした。つまり孤立状態だったのです。

進退窮まった東條は、昭和天皇の御前で、内閣の存続を訴えました。昭和天皇は、東條の上奏に「そうか」とだけ答えます。
暗に退陣を促された東條は、7月18日に総理大臣を辞任。重臣たちの総意であった東條退陣は、こうして進みました。昭和天皇は、最期まで東條の事を気にかけ、退陣の際は、勅語で労いの言葉をかけています。
あまりのことに、東條の部下の中には、クーデターを進言する者もいましたが、「お上のご信任が薄くなった時は、ただちに職を辞するべきだ」と述べて、速やかに官邸を引き払いました。その後の東條は、重臣会議や、陸軍大将の集会に出る以外は、表に出ることはなく、用賀に遭った自宅で静かに暮らします。
後任は予備役の陸軍大将小磯国昭が内閣を発足。しかし戦局は悪くなるばかりで、1945年(昭和20年)1月6日。連合軍によるルソン島上陸準備が判明すると、各重臣が、個別に天皇陛下へ意見を述べる事が決まりました。東條英機は2月26日に拝謁します。

ほとんどの重臣が、和平派である中、東條だけが、徹底抗戦を主張。さらに周りとの孤立を深めました。戦争の遂行の初心を忘れてはいけないという、東條が軍人であるが故の考えと、こだわりの強さが合いまった拘りなのだと思います。

同年2月は、ソ連領のクリミアで、アメリカのルーズベルト大統領と、イギリスのチャーチル首相が、スターリンとヤルタ会議を開いた月でもありました。
ルーズベルト大統領は、日本の領土である南樺太や千島列島、満洲といった、日本が有している権益を、すべてソ連に与える事を約束。見返りとして、中立条約を無視してソ連に対日参戦することを、スターリンに求めます。

ソ連の、正しくは共産主義の目的は、世界赤化でした。その実現に向けて、第二次世界大戦に至るまで、ソ連の工作活動は、長く密かに、各国に及んでいたのです。支那事変が起きると、戦局を長引かせるように画策し、アメリカでは世論を、対日批判に向かうように煽動。経済政策で進退行き詰ったルーズベルトに、第二次大戦に参戦を意識付けたのも、政権内部に入り込んだスパイでした。

日本が中華民国との戦争に、疲れてくるころに、アメリカをはじめとする連合軍と闘い、弱体化した所、敗戦革命を起こすことを目論んでいたのです。しかし、それはおくびにも出しません。ソ連は国内情勢と、最終的な目的をうまく隠して、国際社会に「労働者大国で、国民は飢えることなく、格差もなく、平等に扱われている国である」をアピール。これが成功し、当時の知識階層には、ソ連に憧れを抱く人も少なくなかったのです。

実際、ルーズベルト大統領夫人は、人々を平等にする思想として、共産主義に憧れていたそうです。第二次世界大戦中、アメリカは同盟国ソ連に、膨大な軍事物資支援を行いました。これがなければ、ドイツとの戦いで、大敗を期していたでしょう。
日本を戦争に踏み切らせた、「ハルノート」の素案政策に、財務省高官ハリー・ホワイトが関わっていますが、彼はソ連赤軍情報部のスパイだったのです。ゾルゲの支持で働くスパイ尾崎秀実が、日本の近衛内閣に、入り込んでいたように、アメリカにも、そしてイギリスにもスパイがいたのでした。こうして第二次世界大戦に参戦し、表向きは連合国の勝利。アメリカの勝利に終わりましたが、ソ連に援助をしたことで、欧州の半分は、共産主義国となり、植民地があるからこそ、豊かだったイギリスも、かつての繁栄はありません。ドイツは東西分断。欧州は、東西冷戦の舞台となってしまいます。

アメリカが援助していたハズの中華民国も、気が付けば、文化大革命。共産主義国となり、アジアの国々も共産化したのでした。そして我が国日本は、二度と立ち上がることができないほど、叩き潰され、GHQによる洗脳の昭和史となるのです。(これらの経緯は、現在、解読された当時の暗号や資料が、Venona文章の公開により、明らかになってきています。本編はその内容を取り入れて、書いています)

1945年(昭和20年)3月。制空権を失った日本は、本土空襲が本格化。全国各地で一般民が、犠牲となっていきました。
硫黄島が玉砕となったことから、ついにアメリカは沖縄支配に乗り出します。日本にとって沖縄は、どうしても守らねばならない場所でした。一般人を加えた防衛隊も組織し、官民総出で米軍を迎え撃つ戦となり、神風特攻隊や、人間魚雷。そして戦艦大和の投入となるのですが、4月7日坊ノ岬沖で撃沈されました。

護衛の戦闘機を付けず、一艘だけで沖縄に向かったことから、「無駄死に」論も根強い 戦艦大和ですが、その使命は、「アメリカ軍の襲撃を逃れることができれば、そのまま沖縄に座礁させ、大和の主砲を砲台にすること」でした。故に、その主砲は渾身の思いを込めて作り、燃料は片道分だけ搭載したのです。 
いよいよ占領されるとなった沖縄では、多くの民間人の集団自決がありました。これについては「日本軍の命令」によるものと、されてきましたが、そこには理由があって、単に自決だと年金が出ないため、当時の指揮官が「日本軍にいわれてやったこと」にしなさいと、言った背景があったことを記載しておきます。

4月7日小磯内閣は総辞職。元侍従長で予備役海軍大将の、鈴木貫太郎が内閣を組閣しました。その数日後の12日。アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトが急死し、副大統領のトルーマンが、新たなアメリカ大統領に就任します。
アメリカ大統領の訃報を耳にした鈴木総理は、同盟通信社の質問に答える形で、哀悼の意を表する談話を発表。自国が敗戦濃厚な窮地に立ちつつも、敵国の訃報に対して、品位と礼節を失わない鈴木総理の姿は、世界から賞賛されたのでした。
4月30日ドイツではヒットラーが研寿自殺を遂げ、5月に無条件降伏。イタリアは1943年9月8日降伏していますから、すでに三国同盟は亡くなっている状態でした。

鈴木内閣は「本土決戦」をほのめかしつつ、水面下で戦争終結を図ろうと、交渉先を探ります。トルーマン大統領と、イギリスのチャーチル首相。ソ連のスターリンは、ドイツのベルリン郊外で、第二次世界大戦後処理を決定する会議を行いました。
こうして、7月26日に、アメリカ・イギリス・中華民国の3か国によるポツダム宣言が発表されます。この中華民国参加は、ソ連のカモフラージュ役でしたが、そこを気づけなかった鈴木内閣は、ソ連に和平斡旋を要請。水面下で、樺太や千島列島。満洲への侵攻を準備しているなど、思いもしなかったのです。ソ連に関して、著しい警戒心を抱いていたのは、一部の陸軍。特に北部軍司令部の樋口季一郎中将くらいでした。
完全に日本は、情報戦で敗北したのです。
日本政府がポツダム宣言を受け入れるか否か、迷っている矢先、8月6日広島と、8月9日長崎に、原子爆弾が投下されました。8月10日昭和天皇のご聖断が下ります。
その後の重臣会議で、ご聖断を伝えられた東條は、同意の旨を述べました。クーデターを主張する将校もいましたが、「絶対に陛下のご命令に背いてはならぬ」と、血気にはやろうとする将校たちをいさめます。

8月15日玉音放送が流され、国民は日本の敗北を知りました。東條英機61歳の夏。
ポツダム宣言受託後、敗戦と戦後への準備が始まったのです。
敗戦戦後、鈴木貫太郎内閣の陸軍大臣をはじめ、多くの軍人が自決しました。

9月2日戦艦ミズリーで、日本は降伏文章に調印。連合国の占領下におかれます。その連合国(11ヶ国)で構成された極東委員会が、ワシントンに設立。委員会で決定した政策を実行するための連合国最高司令官総司令部(GHQ)を、日本に設置しました。
連合国最高司令官ダグラス・マッカーサーは、戦争における戦犯指定者達を「平和に対する罪」で、裁く為、該当者すべてに逮捕状を出したのです。

「平和に対する罪」に該当するのは、A 級戦犯。B級は通例の範囲の戦争犯罪。C級は人道に対する罪。と、規定されますが、罪の重さを示したものではなかったのです。また太平洋戦争開戦時には、存在しなかった事後法でした。(だけに今も議論になっています) 
「開戦を決断した東條と、東條内閣の閣僚たちは、A級戦犯として逮捕されるだろう」と、当時、多くの人が予想し、興味本位で動向に注目します。

東條は、次男以下の子どもたちを、すべて分家や幼女に出し、かつ子夫人には、実家に戻るよう伝えますが、夫人はそれを拒否。東條の傍を離れない道を選択しました。
9月11日東條と東條内閣の閣僚に、逮捕命令が下ります。東條はこの日、拳銃で自らの右胸を撃ち、自殺を図りました。
「捕虜となるよりは、自決すべし」過去に、この訓令を出した東條。逮捕に際して、絶望とか、やけを起こしての暴挙ではなく、逮捕命令が下った事から、訓令に従い、自決を行ったのでしょう。

しかし、弾が急所を外れたため、一命を取り留めたのです。「侵略戦争の首謀者として断罪する」事を決めていたGHQは、何があっても東條を回復させ刑を言い渡す必要がありました。そのため、アメリカ軍による最先端治療を施します。
東條が総理大臣に就任した当時、各新聞視野ももてはやし、さらに日清日露戦争同様、第二次世界大戦への、日本の参戦を煽りました。日中戦争が長引くことで、戦時中という意識がボケた国民は、新聞や言論に乗って、戦争決起に沸き、東條の自宅には、国民から戦争を即す手紙が、とめどなく届いたのです。実際、戦争を起こして数年後、それが芳しくない結果を見た時、新聞各社は東條が拳銃で自殺を図った経緯を、辛辣に報道。メディアを疑わない純朴な国民は、東條並びに政府を罵倒しました。

A級戦犯として逮捕されたのは、100人以上。実際に起訴されたのは、東條をはじめとする28人で、彼らは巣鴨プリズンに収容されます。
1946年(昭和21年)5月3日から、極東国際軍事裁判=東京裁判が開かれました。

「この戦争は侵略戦争ではなく、自衛戦争であり、国際法には違反しない」
「昭和天皇は、戦争を望まなかった。嫌々ながら、内閣や統帥部に説得をされて、戦闘に同意しただけ」
裁判が始まると、東條は自己弁護することなく、国家弁護と陛下のお気持ちを、証言をしたのです。連合国内では、昭和天皇の戦争責任を問う声もありました。自己弁護をせず、一貫して国家を庇い、天皇陛下を擁護し続ける東條の証言が、見事に陛下の免訴を確定させたのです。同時に、拳銃自殺記事で、地に落ちたはずの東條の評価を、復活させる効果も産みました。

1948年(昭和23年)11月4日~12日の間に、東京裁判の判決が下ります。病死や訴追免除者を除き、起訴された全員が有罪。東條英機、広田弘毅、板垣征四郎を含めた7人は、絞首刑が下り、16人が終身刑。2人が勇気禁固刑となりました。
判決を聞いた東條は、「この裁判は、結局は政治裁判に終わった。勝者の裁判たるの性格は脱却せぬ」と、遺書に書き残しています。

同年12月23日へと日付が変わると、夜明けになる前、東條たち絞首刑者は、巣鴨プリズンで人生の幕を閉じました。享年64歳。
刑に服した彼らの遺体は、遺族の元へ帰ることなく火葬されます。その後、小さな骨のかけらも残らないように砕かれ、その遺灰を飛行機で太平洋沖合50km辺りで広くまき散らしました。これはA級戦犯が、受難者や英雄として祀り上げることなく、その可能性を全て排除するのが目的とのことです。 

太平洋戦争を主張し、開戦時の総理として、国を動かしていた東條英機は、戦後、評価点の低い人物でした。実際、こだわりと癖も強く、独断の気や、人選の悪さもありましたが、さりとて極悪人ではなく、総理の椅子に座ることを、望んだ訳でもありません。
行きがかり上、総理になった瞬間から、自らの意志とは真逆の、昭和天皇が望む和平を、実現するために、できる限りのことは尽くしました。

ソ連を背景にした、アメリカやイギリスの二重三重に張り巡らされ日本敗戦の謀略に、気づかなかったのも、彼だけでなく、ほとんどの日本人は気が付かなかったのです。
私人としては、妻を大事にし、子どもたちの将来を案じる父でもありました。
巣鴨プリズンに収容されて以降、浄土真宗に深く帰依した東條。自らの死が縁となり、アメリカに仏教が広がることを期待し、絞首台に勇んで進んだともいわれていますが、戦争の責任を一身に纏い、絞首刑を受け入れたのでしょう。

戦争という極限状態が、♄年齢域に当たっているのも意味深く、東條が人生と命を懸けて守った天皇陛下と日本は、見事に残りました。戦後の混乱期こそありましたが、その後日本は、見事に再生したのです。

今までの人物同様、ゴシップねらいの記事ではないため、死亡時のホロスコープは外しております。日本が大戦を迎えた頃の背景等も入れたので、長めになりました。ここ近年、ソ連の暗号等の解読が進み、Venona文章が公開されることで、第二次大戦当時の見方が変わり、日本という国の再検証、当時を牽引した人たちの再評価が進むことを祈ってやみません。