Aさんの上司は、会社の備品を盗んだり、経費をごまかしたり、数々の不正行為を行っていました。
最初のうちは、上司でもあり、仲間内でもあり、黙って見過ごしていたのですが、それをいいことに、上司の不正行為はどんどんエスカレートしていきました。
あまりにも目に余るものがあり、このまま黙っていたのでは、こちらまで不正行為に荷担していることになってしまいます。 しかも、その上司は、今までの不正行為を部下におしつけようと画策もしていることがわかりました。
ことここに至って、Aさんは、同僚のBさんと共に、立ち上がりました。
上司の不正行為の証拠を集め、告発しました。それは簡単なことではなく、かえって自分たちが追い込まれそうになった局面もあり、苦労の末の勝利でした。
上司は会社を去ることになり、真っ青な顔をして、会社の私物を鞄に入れ、よろめきながら職場を出ていきました。この年齢で免職では、次の職を見つけるのも難しいでしょう。

Aさんは「ついにやった!」と嬉しく、Bさんに「今夜は祝杯をあげよう!」と声をかけました。すると、Bさんは意外にも「今日はこのまま帰るよ」と暗い顔をして帰っていきました。その後ろ姿を見ながらAさんは、「どうしたのだろう?」と思いました。
この話をAさんから聞いた3人は、それぞれ次のように言いました。

友達のCさんは、「正しいことをして、勝ったんだから、喜ばないと! このために頑張ってきたんでしょ!」
恋人のDさんは、「Bさんの気持ちがわかるな。正しいことをしたけど、はしゃぎたくはないんだよ」
同僚のEさんは、「そもそもやめておけばよかったんだよ。知り合いを告発なんて、いい気持ちはしないよ」
あなたは、どの意見に賛成ですか?

心が決まったら解説を読んでください。



解説を読むこのテストから学ぶテーマ
「人が人を“裁く”ということ」

これに近いお悩み相談が、実際に私の携帯サイトに寄せられたことがあります。そのとき私は、学生の頃に観たテレビドラマのラストシーンを思い出しました。 山田太一脚本の『男たちの旅路』というシリーズものの「廃車置場」という回です。

主人公の警備員たちが、何人もの女性を次々と襲った犯人を、自分たちの手でつかまえようと、休日返上で頑張り続けます。そして、ついにつかまえた犯人は、若い男で、抑え込まれると、身をよじって泣き出します。
その帰り道、電車の中で、若い警備員が喜んで浮かれ、はしゃぎます。苦労して、ついに犯人をつかまえることができたのですから、当然です。
ところが、中年の警備員は、そんな若い警備員に「いい加減にしないか」と言います。
若い警備員「なによ、なに不機嫌になってんのよ? さっきから」
中年の警備員「俺は、こんな時に、はしゃぎ回る奴が嫌いだ」

ただ、これだけのシーンですが、なぜか心にひっかかりました。 当時の私には、若い警備員と同じで、中年の警備員の気持ちが理解できなかったのです。
犯人をつかまえるために頑張ってきて、ついにつかまえることができたのに、なぜ喜ばないのか? 犯人が泣いてかわいそうだからか? だったら、被害者のほうがよほどかわいそうだ。卑劣な犯罪を犯したやつが、逮捕されて泣いたからといって、同情するのはおかしい。
…当時の私はそんなふうに思いました。でも、「なぜこの人は喜ばないんだろう?」ということは、心の隅に残っていました。
そして、時代は進み、インターネットが盛んになりました。
そして、掲示板やブログにおいて、たとえば「この画像はちゃんと著作権者の許可を得て掲載しているんですか? そうでなければ犯罪ですよ」などと、法律や正論をふりかざして、落ち度のある相手を徹底的に叩く人たちが目立つようになりました。
そうなってみて、ようやく中年の警備員の言うことがわかるような気がしてきました。 「法律を守れ」というのは、文句のつけどころがないほど正しいことです。 ただ、相手が間違っていて、自分が正しいからといって、言いつのる姿は、とてもではありませんが、見るにたえません。

「正しいこと」であっても、それを人を痛めつける武器にしてしまえば、とても正しいこととは言えません。 それは「正しいことの悪用」だと私は思います。
人に石をぶつけたくなったときは、そうしている自分の姿が鏡に映ったところを想像してみると、我に返れるのではないでしょうか。
中年の警備員が言いたかったことは、「悪いやつはつかまえなければならない。それは正しい。しかし、正しいからといって、勝ち誇ってはいけない。自分だけが正義のような気になってはいけない。誰でも正しいところがあり、悪いところがある。それを忘れてはいけない。人を裁くことは重苦しくあるべきなのだ」というようなことではないでしょうか。

「正しいことなら、言ってもいいのか?」「悪い人間なら、責めてもいいのか?」そういう、一歩立ち止まった疑問、ためらいがあってもいいのではないかと思います。昔は、
「敵をまかして勝ち誇る正義の味方」をカッコいいと思っていましたが、今は、「勝って後味の悪さを噛みしめる正義の味方」をカッコいいと思うのです。
<賢者の答え>

友達C「正しいことをして、勝ったんだから、喜ばないと! このために頑張ってきたんでしょ!」
→この意見をもっともだと思ったあなたは……
私もかつてはそう思っていました。つかまえるために頑張っておいて、つかまえて喜ばないとは、なんなんだと。 しかし、もし世の中が、間違ったことをした人間は容赦なく叩き、正しいと思っている者たちはどこまでも勝ち誇っている、そんなふうになったとしたら、どうでしょうか? やはりそんな世の中は嫌だと感じるのではないでしょうか?
「罪を憎んで人を憎まず」という言葉があります。悪事を見逃すことはできませんし、正義は行われるべきです。しかし、そこに人と人としての敬意、思いやりはつねに残されるべきでしょう。そして、人が人を裁くことへのためらい、節度はあってしかるべきでしょう。 正義感の強いあなたのことですから、今はそう思わないかもしれません。今はそれでもいいと思います。でも、正義感が強いからこそ、いつかはそう思うようになるはずです。

恋人のD「Bさんの気持ちがわかるな。正しいことをしたけど、はしゃぎたくはないんだよ」
→この意見をもっともだと思ったあなたは……
全力で頑張って正しいことをして、うまくいったのに、喜ばない。一見、矛盾にしているようにも思える心理です。それを理解できるあなたは、さまざまな人生経験を積んでこられたのかもしれません。あるいは、もともと人の弱さや脆(もろ)さへの理解が深いのか。
喜ぶべきときにも喜べない自分を、暗いとか、考えすぎとか、思ってしまうこともあるかもしれません。しかし、人や人生を深く知るほどに、物事を単純には考えられなくなり、感情も込み入ってくるものです。
「本当にそうなのか?」「これで正しいのか?」「正しいことなら、してもいいのか?」 何をするにも、いろいろな疑問がわいてきて、ためらいを感じることが多いでしょう。
それもまた、優柔不断なわけではなく、それだけ物事のとらえ方が多面的 だということです。 単純だった頃を懐かしく思うこともあるかもしれませんが、単純ではいられなくなることが、人としての成熟です。

同僚のE「そもそもやめておけばよかったんだよ。知り合いを告発なんて、いい気持ちはしないよ」
→この意見をもっともだと思ったあなたは……
正しいことをして、勝ち誇るどころか、逆にその行いを後悔してしまう。そのやさしさと思いやりは素晴らしいと思います。しかし、悪事を見過ごしつづければ、どんどんエスカレートしていってしまいます。いつかは見過ごせない限界がやってきます。それでも見逃せば、それは本当に悪事への荷担になってしまいます。
いい気持ちはしないから、やめておけばよかったではなく、いい気持ちはしないけど、正しいことを行う。難しいことですが、それが必要です。 正しいことをして勝ち誇るのでもなく、やらなければよかったと後悔するのでもなく、その中間こそが、求められるのです。あなたも本当はそれがわかっているはず。
人の気持ちというのは、単純なほう、極端なほうへと、ひかれがちです。でも、それに負けずに、つねに真ん中を進むことを意識してみてください。


裁判員制度は2009年から日本でも始まりましたが、陪審員に選ばれた人達はみな、苦渋の決断をしているのを見て、裁くとは本当に責任重大なことなのだなと感じました。
テストの中の出来事のように“悪事の現場に遭遇する”ということはなかなかなくても、小さなことでは案外身近に起こりうる出来事なのかもしれません。たとえばグループ内の「いじめ」や「ずる」など。
その誰かの横暴を、見て見ぬふりをするか、告発するか。告発したとして、葛藤を持って人と向き合うことができるか。難しいお話でしたね。
でも、誰にでもこんな場面が訪れる可能性があります。そのときはぜひ、今回のお話を思い出してみてください。

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