パーソナルデーターとホロスコープ


1852年4月14日・周防国都濃郡徳山横元町生まれ(現・山口県周南市児玉町)
出生時間不明(12時設定)
☀星座♈24°18
☽星座♒25°41(月ふり幅♒19°40~♓1°42。20時40分くらいから☽は♓)
♈☀なので、第1室(本人の部屋)は、♈。第12室(障害・溶解の部屋)は♓と、ベーシックな並びになります。形はバケットタイプでしょうか。東半球と北半球に星が多いことから、目的のためには、努力を惜しまないため、時には人と、激しくぶつかることもありますが、♈の☀が宿す、明朗快活。目標達成に向けて、ガンガン進む性質と、相性はいいでしょう。しかも、☀は♒の☽と、火と風の心地よきセキスタイルです。

第2室(金銭所有の部屋)♉は、入りたてホヤホヤの♇。
♅♄が織りなす、土のステリウムと、♈の☀は、とてもパワフルで、マグマのように溶け合うコンジャンクション。ステリウムの少し先には、☿があり、対岸の第8室(授受の部屋)の♃Rと、オポジション。♃が順行なら、その効力は、さらに強かったかもしれませんが、児玉の社会的成功を支える運勢の柱と言えるでしょう。
第3室(幼年期の部屋)♊は、♀があることで、興味の幅が広く、明るい性格。どこか人を和ませる性質を持ち、兄弟や親族をはじめ、周囲の助成を得やすいでしょう。第4室(家族の部屋は♋が守り、☊R。本人自身の問題というよりも、家族の事で、良くも悪くも影響を受けることになりがちです。

第5室(嗜好の部屋)♌に♂があり、第2室の♇♅♄のステリウムとのスクエアは、どんな艱難辛苦も乗り越え、現状を変えてゆく人生を物語っているようにも見えます。
それでいて、ストイックになり過ぎず、周りが沈んでいると、不思議に盛り上げてしまうムードメーカな面も、発揮する児玉源太郎。
☽☿が、♃と穏やかなアスペクトを持つと、お金や人との巡り合わせ、成功をライトアップしてくれます。児玉の♃は、Rなので、引き算も入りますが、故に功を奏することもあります。何より、実際の星は逆行をしません。

ご自身の星にRがある方は、気を取られないように、なさってください。
第11室(友人希望の部屋)♒に輝く☽は、正午で取っていますので、児玉が夜の20時40分を過ぎての生まれだと、♓に入る可能性大。いずれにしても、オポジションなし。
☽は正午の☽を取っていますが、第11室(友人希望の部屋)で、☀の他、♇ともセキスタイル。♃はとスクエアと、四代元素の相性的には、難がありますが、彼の独創性、平等性、フレンドリーさや世話好きな所を見ると、♒の☽。勘の鋭さを重視するなら、♓の☽も十分、候補に挙がります。

第12室は♓が担当していますが、守護星の♆が、美意識やセンスの良さ、勘の鋭さを補佐している感じはあります。ガンガン進むのもいいけれど、本当に引き際って大切で、ここを読めることで命拾いは、あるのです。

児玉源太郎年表

(ウィキ・その他資料参照)

1852年4月14日(嘉永5年閏2月25日)周防国都濃郡徳山に位置する徳山藩(長州藩の支藩)馬廻役児玉半九郎と、妻元子の長男として誕生。
1856年(安政3年10月)父半九郎、藩内の思想対立により、蟄居閉門中に死去。浅見栄三郎の次男、彦次郎が児玉家の婿養子となり、家督を継ぐ。
1860年(万永元年)藩校與譲館に入校。学問の他、剣術。槍術等を身に着けてゆく。
1864年(元治元年)禁門の変・第一次長州征伐に馬関戦争と、長州藩激震の年。藩内闘争の末、児玉彦次郎が暗殺される。児玉家は断絶と家財を没収さる。
1865年(慶応元年)高杉晋作の功山寺挙兵・桂小五郎の帰還によって、長州藩が倒幕カラーとなり、その影響を受け、児玉家は名誉回復。
1868年(明治元年)徳山藩献功隊入隊。秋田に出陣。実戦経験を積む。
1869年(明治2年)函館戦争初陣。陸軍軍人となるため、大阪兵学寮入学。
1874年(明治7年)佐賀の乱には、大尉として従軍。足を負傷。大坂で治療の後、熊本鎮台准参謀となる。岩永秀松の娘・松子と結婚。熊本へ移動。
1876年(明治9年)神風連の乱を鎮圧。
1877年(明治10年)西南戦争。鎮台司令長官の谷干城を補佐。妻の松子は、子どもを連れて大阪へ避難。
1878年(明治11年)参謀本部設置
1880年(明治13年)東京鎮台第2歩兵連隊長兼佐倉営所司令官就任。
1884年(明治17年)大山陸軍卿と共に、軍事調査団が渡独。
1885年(明治18年)7月24日参謀本部第一局長に異動。
1887年(明治20年)陸軍大学校長兼任
1889年(明治22年)川上操六がドイツから帰国。参謀本部へ復帰。モルトケ来日・陸軍がドイツ式に還元に切り替わる。
1890年(明治23年)第一回帝国議会開催。
1892年(明治25年)陸軍次官・陸軍省軍務局長。
1894年(明治27年)7月27日~1895年(明治28年)4月17日日清戦争。大本営陸軍参謀として後方支援を担当。
1898年(明治31年)第三次伊藤内閣発足。児玉源太郎第4代台湾総督府就任。
1900年(明治33年)~1902.(明治35年)第四次伊藤内閣兼陸軍大臣(桂太郎と交代)
1903年(明治36年)第一次桂内閣・7~10兼内務大臣、1903.9~10兼文部大臣
1903.10大臣職を免じ、参謀本部次長に返り咲く(降格人事)
1904年(明治37年)2月6日~1905年(明治38年)9月5日露戦争.陸軍参謀本部次長・満洲軍総司令部参謀長兼任。
1906年(明治39年)第4代台湾総督府・参謀本部次長から参謀本部総長へ移動。爵位は子爵。南満洲鉄道創立委員長
7月23日脳溢血のため死去。

児玉源太郎惑星history

●☽年齢域・0~7歳1852~1859年(嘉永5年~安政5・6年)

1852年(嘉永5年)4月14日(嘉永5年閏2月25日)。
長州藩の支藩徳山藩に使える上士馬廻役児玉半九郎と、妻元子の末子長男として、児玉
源太郎は誕生します。長女久子と二女信子に続いて、待望の男の子誕生に、家族一同が
喜びました。幼名は百合若。(本編はフルネーム、児玉もしくは源太郎と表記します。)
父の半九郎は、文人気質で、実務能力も高く、代官や評定役を歴任。同じ徳山藩士河田
政直の長男で、児玉家には婿養子として入ったのでした。小笠原流の礼式にも通じ、向
かいに住む学者島田蕃根とは、漢詩を語り合うのを楽しむ間柄。息子にきれいな名が付いたのは、半九郎の美意識もあったと推察。源太郎を名乗るのは、後の事です。

源太郎が生まれた年、徳川幕府は、ある選択に迫られました。
これまで長崎の出島を使い、限定的に交易をしていた国オランダ。そのオランダ商館長
のヤン・ヘンドリック・ドンケル・クルティウスから、「日本に開国と通商条約の締結を求めて、アメリカが近々に艦隊を向けてくる」通告を受けたのです。
オランダは、アメリカが来る前に、通商条約を結ぶ事を提案しましたが、徳川幕府は、これを拒否。その後、1853年7月8日(嘉永6年6月3日)。幕府と通商条約を結ぶため、大統領の親書を携えたペリー艦隊が、浦賀沖に姿を見せました。いわゆる黒船来航です。
第12代将軍徳川家慶の重病を理由に、返事を一年引き延ばした幕府でしたが、夏の日本を震撼させた黒船は、漠然としていた武士たちの意識を覚醒し、佐幕と尊王攘夷に分けました。藩の内外問わず、意見を異にした武士同士の対立が起きたのです。

翌1854年2月13日(嘉永7年1月16日)。日本側の想定よりも早めに、今度は9艘の艦隊を率いて、再来航したペリー提督。朝廷を説得することができず、開国へ踏み切った幕府。この経緯を断片的に垣間見る佐幕と尊王攘夷派の対立は、さらに激化してゆきました。(この辺りの経緯や事情は、徳川慶喜や井伊直弼の回で触れています。ご参照ください)

本州の最西に位置する長州藩。外様大名毛利家が納める藩で、江戸時代草創期から、「倒幕」が国是と言われていました。幕末の黒船騒動以降、どこの藩でも、幕府に恭順する佐幕派と、尊王攘夷派が、藩内対立を起こしていました。
かなりザックリ表現ですが、尊王攘夷派は、「日本は文明と文化の進んだ海外から、技術を取り入れて学び、国力をつけた方がいい」柔軟派と、「天皇の国である日本は、外国に屈し、追従するわけにはいかない。外国人は切り捨てる」過激な考え派と、大きく二派に分かれていたのです。

当時の長州藩の中でも、より影響力の強い永井雅楽・吉田松陰は、海外に対して柔軟な考え派でした。桂小五郎や、吉田松陰の門下生の高杉晋作・久坂玄瑞といった若手は、過激な考え派。どちらも尊王攘夷ですが、隔たりがあり、微妙な対立は支藩にも、影響をもたらしました。

尊王攘夷を唱えていた父半九郎は、藩内の反対派勢力から疎まれ、ついに蟄居閉門の身に追いやられてしまいます。理不尽さへの抗議の意と憂悶の末、絶食を続け、ついに自害してしまったのが、源太郎5歳の1856年(安政3年10月)でした。
源太郎は幼すぎて、家督相続の対象になれません。藩校鳴鳳館で、剣術を教えていた浅見栄三郎の次男彦次郎が、長女久子と婚姻。児玉家の婿養子となり、家督を継いだのです。
以降、姉夫婦が、幼い源太郎の養育をしました。周りからその誕生を歓迎され、慈しまれた源太郎ですが、N☊Rに、T♄がヒット。ここは大切な人との距離が離れると読むことができます。

☿年齢域と交差する1859年(安政6年)。安政の大獄で、収監された吉田松陰が、処刑され、多くの長州藩の志士は、怒りの矛先を徳川幕府に向けました。
●水星年齢域7~15歳1859~1867年(安政6~慶応2・3年)

1860年(万延元年)。源太郎は、藩校鳴鳳館に入学します。文武両道な☿年齢域を迎え、
文学を桜井魁園と本城清から学び、撃剣は浅見栄三郎、槍術を彦次郎の兄、浅見安ノ丞に習いました。物覚えはいい方で、成長期をともいえる☿年齢期ですが、源太郎の7年は、長州藩の激動期と重なります。

1861年3月14日(文久元年年2月3日)対馬の尾崎浦に、ロシアの軍艦ポサドニック号が、やってきて強制投錨しました。強引な登場に、対馬藩はロシア海軍へ抗議をしますが、難破を理由に動かなかったのです。やがて兵舎や工場。訓練所まで内地に作りはじめ、島民ともめ事を起こし、その上で、対馬藩に様々なものを要求。ついに永久租借の話まで、持ち出したロシアへの対応は、長崎奉行もお手あげ。幕府は外国奉行小栗忠順を、咸臨丸で対馬藩に向かわせたのです。

国力の差がありすぎるロシアを前に、幕府も手が打てないまま約5か月が経過した後、イギリス海軍の介入をもって、ようやくポサドニック号は、対馬を離れました。
対馬の近隣藩は、長崎奉行から、事件の偵察を命じられ、一連の経緯をみて、いつ自国(藩)が、外国から襲撃を受けるかわからない。外国への危機感を、募らせたのです。
長州藩もその近隣藩の一つでした。幕府の随行員として、上海に留学していた高杉晋作が、帰国後に騎兵隊を組織した頃です。
特に外国人嫌いな攘夷派は「外国、打ち払うべき」という意識と、彼らに太刀打ちできない徳川幕府を、終わらせる倒幕を強く意識し。実行に移してゆくのでした。

1863年(文久3年)攘夷派の長州藩士は、高杉を中心に、イギリス公使館焼き討ち事件を起こしました。本国長州藩内の尊王攘夷派は、「何が何でも攘夷決行!」と、永井雅楽を切腹に追い詰めた後、久坂玄瑞を中心に、下関で外国商船を砲撃したのです。(この二日後に長州藩、長州ファイブを、秘密裏にイギリス留学させました)
無通告で商船を砲撃されたフランスとアメリカは、報復として下関を襲いました。持っている兵器の差で、あっさり負けるのですが、長州藩の志士たち。外国船への砲撃を止めなかったのです。

1864年(元治元年)砲撃をやめない長州藩に鉄槌を下すため、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの4ヵ国が、連合を組む。留学席のイギリスで、この事態を新聞で知った長州ファイブは、愕然とします。
藩の危機を前にて、伊藤博文と井上馨は、留学を中止して帰国を決意。船を乗り継ぎ、強行軍で長州藩に帰った二人は、攘夷を止めようと、周囲を説得して回りました。しかし、その言葉に耳を傾ける者は、少なかったのです。それどころか、外国かぶれの裏切り者という目で見る者たちから、命を狙われました。

世相的に、保守派や公武合体派が力を持った元治元年。過激な攘夷派が、禁門の変を起こしたことで、朝廷を怒らせてしまう長州藩。ついに朝敵となり、幕府が第一長州征伐に乗り出した数日後、4ヶ国連合も到着して、馬関戦争を仕掛けます。
外部から二重に追い込まれた長州藩なのですが、藩内闘争も激化しました。その影響は支藩にも及び、源太郎の環境も一変します。
保守派に自宅襲撃を受け、姉と共に自分を可愛がってくれた義兄彦次郎が、惨殺されました。怒りに任せて刀を取り、駆けだそうとした源太郎を、必死で止めたのが、母の元子だったのです。

13歳の源太郎では、家督相続はできず、児玉家は断絶。年の瀬には、邸宅を没収され、急激などん底生活に追いやられました。子どもたちを養う元子夫人の苦労は、並大抵ではなかったと思いますが、困難な中にあっても、武家としての誇りを失わないよう、源太郎に「曽我物語」を読み聞かせた逸話が残っています。

海外勢を相手に、手痛い状況に追い込まれ、攘夷は無理。やっと現実を受け入れた過激な勤皇派たち。
「あれは、幕府が攘夷をやれと言うからやった。賠償金は、幕府からもらって」と、意識を切り替えた高杉は、伊藤と井上を介して、イギリスをはじめ、海外との交渉を進めました。その一方で、功山寺クーデターを起こし、幕府に恭順する保守派の排除に成功。
桂小五郎の帰藩もあり、長州藩は完全に倒幕カラーに染まります。

この影響と、源太郎14歳になったことで、翌1865年(慶応元年)。怒涛の慶応年間が始まりますが、徳山藩主毛利元蕃から、児玉家は家名再興が許されました。
源太郎は中小姓。25石の禄を与えられます。元服して児玉源太郎忠精と名乗り、藩に仕えると、半年を待たずして、元々の馬廻役100石へ返り咲きました。
1866年(慶応2年)は、坂本龍馬を仲介に、京都で薩長同盟が結ばれ、源太郎の☿年齢期と、♀年齢域が交差する翌1867年(慶応3年)。長州藩種主毛利敬親は、倒幕挙兵の意を下したのです。
●♀年齢域15~24歳・1867~1876年(慶応3~明治9年)

1868年(慶応4・明治元年)第15代将軍徳川慶喜の申し出によって、朝廷も江戸幕府も、納得して行った大政奉還でしたが、その後、勤皇派(明治新政府)は、徳川家を倒すため、幕臣側から手を出すように仕掛け、戊辰戦争を興したのです。
今でいえば、高校生な年頃になった源太郎は、この年、徳山藩献功隊に入隊。同年秋、半隊司令(小隊長)として、戊辰戦争に従軍。秋田に向かいました。様々な実践経験を積み、翌1869年(明治2年)函館戦争が、初陣となります。

敵がしかける夜襲を、冷静に見極め撃退する源太郎。その的確さと肝の座り方が、新政府軍指揮官、山田顕義の目に止まりました。同じく長州藩出身で、大村益次郎に師事した戦術の天才山田は、函館戦争から凱旋した源太郎をスカウトします。
こうして児玉源太郎の♀年齢域は、軍人への道が開き、兵学寮(下士官の養成所)へ進んだのです。時代的には、文明開化な明治草創期と重なりました。

明治新政府は、国力差がある欧米諸国を相手に、植民地化への回避。不平等条約の撤廃と、富国強兵の実現のために、江戸時代の行政を根こそぎ変更。国防も、武士が国を守るのではなく、国民の一人一人が、国防に携わる(徴兵)の導入したのです。
戊辰戦争の際、勤皇派に着いた武士たちの中には、主権が徳川幕府から、皇室へ変えることで、自分の暮らしがよくなればいいと、考える人も結構いました。全ての武士が、明治新政府の描く新しい国と、一致していたわけではありません。

江戸時代に熟成させたシステムを、根こそぎ壊したことで、生じる歪、弊害が、わが身に降りかかることは、想定していなかったのです。そのため不満は募り、武家の時代を終わらせる、徴兵制への抵抗は大きく、このため大村益次郎は、暗殺されました。
政府内でも、意見と欲のすれ違いや対立が深まって、1873(明治6年)10月。征韓論に端を発した明治6年の政変が起きました。西郷隆盛、板垣退助当等に呼応して、多くの役人が、明治政府を離れ、自由民権運動の生み出しと、全国各地で反乱や暴動が起きる下地になったのです。

1874年(明治7年)佐賀の乱に大尉として源太郎は従軍。この戦いで、足を怪我したことから、大阪で治療を受けることになります。治療中に、ご縁があったのでしょう。10月に松永秀松の娘、松子さんと結婚しました。
1856年(安政3年)4月18日生まれ。
☽は12時設定で、♎3°(24hのふり幅♍27°36~♎9°25)源太郎より4歳年下。そう、2人そろって☀星座は♈。
松子の☽は、満月直前で、♈から見たら対局♎。
源太郎の☽は♒。風星座の☽夫婦です。紹介なのか、恋愛なのか、詳細はわかりませんでしたが、ウマが合ったのは、確かでしょう。



結婚式の二日後、源太郎が熊本鎮台准参謀となったことから、揃って熊本へ向かいました。2人の間には、七人四女の子が生まれ、松子が後家となるのですが、それもなんとなくですが、ホロスコープを重ねると、頷けるものがあります。
2年後の♀年齢域と☀年齢域が重なる1876年(明治9年)は、少佐に進級。神風連の乱を鎮圧しました。
●☀年齢域24~34歳1876~1886年(明治9~明治19年)

熱き☀年齢域がスタートする1877年(明治10年)は、西南戦争に参戦。
二児の父となった源太郎。妻と幼い子どもたちは、大阪へ移動させると、司令官谷干城の補佐を、買って出ました。
薩摩軍の猛攻はすさまじく、敵に連隊旗を奪われてしまう事態が発生。乃木希典は呵責と責任感から、切腹しようとしますが、それを止めて
「貴様とおれとは同じ長州藩に生まれて学んだ武士道に二つはないはずじゃ。武士が過失をしても、腹さえ切ればそれで責任が解除されるということはおれは教えられておらぬが、貴様はそういう武士道を教えられたのか。」と、言った児玉のエピソードは有名ですね。

今の時代、責任問題が発生すると、すぐ辞める・辞めさせるケースが後を絶ちませんが、責任から逃げることはできても、問題解決にはならないので、今一度、この児玉が言った言葉を思い返す必要が、社会的にあると思います。
元治元年の夏。自宅を襲撃され、義兄を殺された時、怒りのままに襲撃者を相追いかけようとした源太郎を、全身全霊で止めてくれたのは母でした。確証はありませんが、乃木を止めることができたのは、この経験があっての事かもしれません。

約50日続いた熊本城籠城戦の後は、熊本を転戦。西郷の死をもって9月下旬に西南戦争は幕を閉じました。明治政府軍が勝ち、凱旋したものの、衛生と兵站問題。敵に
通信を遮断されたことから、東京にある司令部との更新ができず、通信の重要性を、肌で感じた源太郎。この経験が、後の日清日露で生きてきます。

1878年(明治11年)2月。源太郎は熊本鎮台参謀副長から、近衛局へ移動になったため、
上京しました。これは児玉源太郎優良株とみる、長州閥の思いもあったかもしれません。
1880年(明治13年)陸軍卿西郷従道が参議となり、農商務卿大山巌が陸軍卿に就任し
た年、中佐となった源太郎。東京鎮台第2歩兵連隊長兼佐倉営所司令官就任します。
1884年(明治17年)大山陸軍卿と共に、軍事調査団が渡独することになりました。
明治中期以降は、内乱を抑えるよりも、外征との戦いから国を守る軍隊へと、変わる必要が出てきたのです。折しも、ドイツが欧州で圧倒的な戦績をあげたことから、「鎮台」より「師団」に代わる道を、日本は選んだのでした。

1885年(明治18年)モルトケの腹心で、ドイツ陸軍大学の兵学教官クレメンス・ビル
へルム・ヤ―コップ・メッケル少佐が、日本陸軍改造のため来日します。
児玉・川上操六・桂太郎の三人は、ドイツ式の兵制を導入のため、メッケルを中心に、した「臨時陸軍審査制度委員会」を発足させました。(これが陸軍三羽烏と言われる所以)尚、この年。大政管制が廃止となり、伊藤博文が日本初総理大臣となった内閣制度がスタートします。

☀年齢域と♂年齢域が交差する1886年(明治19年)源太郎は、は陸軍大学校幹事を兼任します。メッケル直伝の兵制を学び、卒業できた第1期生は、10名。その中に陸軍騎馬兵の父秋山好古がいます。
●♂年齢域34~45歳1886~1897年(明治19~明治30年)

1887年(明治20年)桂太郎の願いを受けて、児玉源太郎は、陸軍大学の校長となりま
した。1年のつもりで来日し、実際、3年ほど滞在したメッケル。帰国する際、「将来は、陸軍の児玉か、児玉の陸軍か、と呼ばれるようになろう」と源太郎の事を評しています。

児玉の♂年齢域前半は、参謀本部の樹立。優秀な陸軍の軍人の育成。後半は日清戦争(1894年~1895年)に分けることもできますが、1891年(明治24年)ロシアはモスクワから、ウラジオストックまで、総延長8470キロのシベリア鉄道に着手します。暗に東宝制圧を意味する事態を知った川上操六は、シベリア鉄道完成の頃、日露戦争が起ることを懸念
参謀本部の総勅をあげての情報戦に入ったのも、源太郎の♂年齢域でした。

日露の前に日清ですが、日清戦争に至る経緯は、東郷平八郎の回をはじめ、既に書いているので、今回割愛。「大本営」が初めて設置された戦いであることだけ、加えます。
陸軍参謀本部→皇居→広島へと移されました。これには理由があって、当時の鉄道最西端だった広島は、宇部港と江田島への物資輸送の拠点だったのです。海上戦、上陸戦どちらも「兵站補給」は非常に重要で、当時それをよく理解していた軍人が、川上操六でした。
大総督府派遣中大本営陸軍参謀と、検疫部部長を兼務した源太郎。天皇陛下の元、大本営で的確な指示を出す川上と共に、朝鮮半島・旅順で戦う、全ての部隊への物資供給を止めないよう、後方支援を担当したのです。

世界の常識を塗り替えて、日本が勝利した日清戦争。下関で日清講和条約が結ばれた1895年4月17日。源太郎のN♃/T♅。☀/☀。N♇/T☀、コンジャンクション。♆/♆のスクエア。
N♇/T♃。N☽/T☀。N♅/♃セクスタイル。N♃/T☊。N☊/T♄。N☊/♅トライン。
N♅/T♄のオポなど、勝ち星つながりも見えますが、端々に影があるのは、話がまとまった直後、ドイツとフランスを伴ってロシアが仕掛けた、三国干渉を物語っていようにみえます。

結核療養のため、兵庫県の舞子に下がった陸奥宗光の病床で、話を詰める伊藤内閣。それだけの決断を迫られたわけですが、戦後直後の日本は、清ともロシアとも、もめ事を起こして勝てる力は残っていませんでした。
それを知る由もない当時のメディアは、勝ち戦の勢いに乗った勢いで、「要求を飲むな!」と書き立てます。これに同調する国民からも、熾烈な批判を浴びながら、遼東半島返還に応じてゆく明治政府でした。傍らでそれを見ていた源太郎は、日露戦争へのある準備を決意しつつ、兼務している検疫部部長仕事にかかりました。

兵士の帰還も始まる=戦地から戻る復員船には、脚気・赤痢・結核・コレラと、様々な罹患者たちが、乗り合わせているのです。戦死1,132人・戦傷死285人・病死11,894人・戦傷病者3,758人という日清戦争。圧倒的に病死が多く、帰還兵を下船後、そのまま故郷に帰せば、国内に伝染病が広がる危険が、目に見えていました。
源太郎は検疫部を兼務し、船から降りた兵士たちの、防疫検査を実施したのです。
その数約23万人。すぐに自由になると思い込んでいる者を、足止めさせて行う検査は、難を極めました。

そこで源太郎、復員兵の漏らす不平や恨み言を、すべて自分の所で握り潰し、医師や技術者が、作業しやすい環境を確保したのです。伴う経費の捻出も、惜しみませんでした。
防疫検査の責任者となった後藤新平は、児玉源太郎の配慮と、実行力を観て、絶大な信頼を寄せたのです。その結果、23万人の防疫検査と、15万人の消毒を完了。
この一大事業は、海外からも注目を浴びました。
全く違う事を、同時進行で進める器用さが、いかにも☽が風星座ともいえますが、防疫事業を行いつつ、本気の怒りが決意に変わった源太郎。イギリスに、ケーブル線布設の作業船と、3000kmにも及ぶ、通信用海底ケーブルを発注します。

大北電信(デンマークが本社の通信会社)が、長崎―上海間を開通させ、その後、長崎―ウラジオストックの間も開通させたのは、1871年(明治4年)でした。かつて岩倉使節団が、ニューヨークに着いた時、大久保利通が、ニューヨークから日本へ向けて、電信を送り、数時間後に長崎に着信。ところが。長崎と東京を結ぶ電信網がなかったため、大久保の電信は、長崎から早馬で、3日かけて東京に到着したという逸話が残っています。
長崎と東京間の、電信網設置は1873年(明治6年)に開通させたので、日清戦争の頃は。電信は開通していたのです。いたのですが、大北電信の大元は、デンマークの会社でした。

デンマークの背後には、ロシアがあったのです。当時の欧州は、王族の婚姻関係で成り立っていました。日本軍側の情報が、ロデンマークから、ロシアに筒抜けになることを、源太郎は危険視したのです。

三国干渉によって、「日露戦争が避けられない」と悟った軍人や、政治家は、それぞれの立場で、日露戦争への準備を始めていきました。
児玉源太郎は、情報戦を制するため、新たな通信ケーブルの構築を始めたのです。
「日本人には、通信ケーブルを作るのは無理。我々に任せろ」と、言ってきた大北電信を跳ね除け、陸軍内部に「台湾燈台電信建設部」を設置。自分が部長になり、御用外国人を雇っての布設作業も行いませんでした。
☀年齢期と♃年齢域が交差する1887年(明治30年)オール日本人の手によって、鹿児島・種子島・奄美大島・徳之島・沖縄志垣島から、台湾までの海底ケーブル設置に成功したのです。
●♃年齢域45~54歳1897~1906年(明治30~39年)

1898年(明治31年)1月に第3師団長を拝命しますが、翌月2月26日。源太郎は第4代台湾総督府に、任命されました。
日清戦争で台湾を割譲された日本は、台北に総督府を置きます。初代総督は、海軍大将の樺山資紀。桂太郎・乃木希典と陸軍が続きました。清を宗主国にしていたが故に、割譲された台湾側には、不満があって当たり前で、当初は現地民の抵抗も非常に強かったのです。

日本側は鎮圧のための軍を派遣しますが、台湾平定時の日本軍戦死者164名に対し、病死者が4,642名という状況に陥りました。かつて欧州の国々が、アジア進出の拠点とするため、この島を支配した歴史を持つ台湾。
lha Formosa=ポルトガル語で「美しい島」は、そのなごり名で、手つけずの自然が美しい反面、毒蛇や毒虫も多く生息し、水害も起きやすい土地だったのです。マラリアにデング熱等、風土病の蔓延が著しく、清の支配も中途半端な状態で、道らしい道すら、当時は整備されていません。衛生環境の悪さに加え、国民のアヘンの蔓延も深刻で、1年4か月治安と開発に苦慮した乃木希典は、「税金を開発にかけて統括するより、フランスに売った方がいいのではないか」と、伊藤博文に提案したほどでした。

第4代台湾総督府となった児玉は、8年1か月の台湾総督府在任期間中、第4次伊藤内閣の陸軍大臣・桂内閣の内務大臣・日露戦争時は、参謀次長と満州軍総参謀長を兼任。そのため、日本にいる事が多かったのです。ではどうしたか、日清戦争終了時の防疫事業で、世界を驚かせた防疫コンビの相方、後藤新平を民政局長に抜擢。絶大な信頼で結ばれている二人は、二輪三脚で、台湾の委任統治を始めました。
「私の職務は台湾の統治であり、討伐ではない」と、言い切る児玉。台湾の行政機構6県65署だった県と役所を、台北・台中・台南の3県、役所は44署に集約する大改革を断行。抗日運動の鎮圧も行い、逆らう者には容赦なく対応しましたが、従う者には仕事を与え、政治に参加するのも惜しみませんでした。

元が医者な後藤新平は、衛生問題にメスを入れ、約17万人といわれるアヘン中毒患者の改善と庇護、風土病の改善に、取り組んでいきます。台湾の人たちの暮らし向上のため、経済産業にも力を入れ、新渡戸稲造はじめとする優秀な人材を、台湾に呼び込みました。農地改良、下水道等を整備。土地所有の権利確定などの諸政策に当たらせた結果、サトウキビ等の生産と収穫量を、年々増やすことに成功します。
西部縦貫鉄道の開通に、基隆港築港。通貨・度量衡整備、統計制度確立の他、産業振興、教育の充実を図り、現在の台湾となる土台を作りました。(八田與一が、台湾へ赴いたのは、児玉・後藤コンビが基礎を作った後の時代になります)

独自の通信網を有し、全ての植民地に、自国産の通信ケーブルをつないだイギリス。そこに着目した源太郎。日本海で沖縄丸が敷くケーブルを、イギリスが持つ海底ケーブルを接続させました。交渉には、日英同盟への空気も味方しましたが、海外で情報収集にあたる部下と、容易に連絡が取れるようになったのです。
形も名前も変えた沖縄丸は、朝鮮半島をさらに北上。ロシアに気づかれないよう、とつとつと、海底ケーブルを張り巡らせる仕事を継続。機密保持のため、乗組員たちは、全員、誓約書を書いたそうです。

1904年(明治37年)2月8日日露戦争が始まりますが、国力差7倍のロシアを前に、戦争をするかしないか、政財界も軍も揉めました。戦争になる約3か月前、アクシデントが発生。陸軍参謀本部次長田村怡与造が、急死してしまったのです。

川上操六が残した対露プロジェクトを、推し進めてきた陸軍参謀本部次の急死(不眠不休による過労死)は、日本軍を奈落の底に落とし、ロシアをほくそえますには十分でした。
その暗雲を吹き飛ばすように、あっさりと内務大臣を辞任。る、参謀本部次長を引き継いだのが、児玉源太郎だったのです。ロシアを相手に戦うには、旅順要塞が完成する前しかない。という話を手見上げに、渋沢栄一を口説き落とし、資金提供を願う辺りも見事ですが、桂内閣の内務大臣と文科大臣なども兼任中。戦場へ行かない選択肢もあったのです。
参謀総長大山巌に乞われたことや、台湾総督府の継続も含みましたが、完全な降格人事を快諾したのは、地位や立場ではなく、国が大変な時に、自分がどう動くかが大切な源太郎ならではの言動です。

さらに黙々と張り巡らせた海底ケーブルが、旅順港の近くまで進みました。バルチック艦隊の動きを、知ることができたのも、日英同盟と、通信ケーブルが一役買っていたのです。
日露戦争は、始まる前から「日本は負ける」世界はそう見ていました。その中で、ただ一人、ドイツにいるメッケルは、「児玉がいる限り、日本は負けない」と言っていました。

日露戦争が始まる時、N♆/T♂とコンジャンクションN♅/T♆セクスタイル。N♃/T☀スクエア。N♇/T♅N♃/T♃トライン。ほかにも気になるアスペクトはありますが、メッケルが言い切る裏付けにはなると思います。

陸軍大将となった児玉源太郎は、満州銀総参謀長を兼任。7月には東京を立ち、大陸へ向かいます。総司令官の大山巌元帥を補佐しながら、遼陽会戦から始まり、沙河会戦・旅順攻囲戦・黒溝台会戦・奉天会戦と進軍しました。
いずれの戦いも激戦に次ぐ激戦ですが、中でも犠牲だけが増え、攻めあぐねる乃木と第三師団を見舞い、叱責した203高地攻略は、小説や映画等で描かれています。
児玉が第三師団を訪れて、4日後に203高地が陥落しているので、絵にはなりますが、日露戦争時における児玉源太郎の真骨頂。それは、奉天会戦の勝利直後、速やかに東京へ向かい、日露戦争終結に向けて全力投球した事でしょう。

「戦争を始める者は、戦争を終わらせることを考えておかねばならぬ」
「戦場として荒らした土地は、終戦の後、以前よりまして住みやすい環境に直す必要がある」

これは児玉の言葉ですが、戦況報告を明治天皇に上奏すると言って、東京に向かった真の目的は、終戦に向けての講和交渉実現でした。
東京にいる陸軍首脳部や、政府関係者は、奉天会戦が見事な勝ち戦となり、舞い上がります。追撃の手を止めず、ロシア領内へ進めと主張する空気の中で、現場から駆け付けた源太郎は、「今講和しなければ、負ける。のんびりしている暇はない」と、厳しくNOを突き付けました。

ロシアは近隣の衛星国から、無尽蔵に軍人も物資も調達できる国であること。
シベリア鉄道の輸送力が復活すれば、物資の乏しい日本軍に、勝てる見込みなどない事。戦費も莫大にかかり、戦没者は既に8万人を超えている現実。
講和を進めるにも、協力国への要請など、一定の期間と手間がかかる等、理にかなった説明をしました。
「勝っているのに、講和などとんでもない」「恥だ」と、強い反論が出る中、源太郎の説明に深く同意したのが、海軍大臣山本権兵衛だったのです。陸の大将と海の大将が、揃って同じ見解をしたことで、周囲は黙らざるを得なかったのでした。
源太郎はロシアを交渉のテーブルに着かせる計画を立案し、陸軍が樺太やウラジオストックを攻撃する間、日本政府はアメリカとロシアを相手に、和平に向けて動き出します。

1905年5月29日対馬沖で、バルチック艦隊を相手に、東郷艦隊が勝利した日本海海戦。起死回生を図りたかったロシアは敗れ、日本の勝利が決定しました。
外務大臣の小村寿太郎から要請を受けた、米大統領セオドア・ルーズベルト大統領は、日本とロシア両国に講和勧告を行います。これが同年6月6日。

数日後ロシアは受諾。この頃のロシアは、明石元二郎の陽動も功を奏し、国内紛争が多発。革命へと続く国民の動きを、ロシア皇帝は止めることができず、兵力を向ける必要に迫られました。
9月5日ポーツマス条約に、日露両国が署名することで、終戦締結したのです。奉天会戦が、終わったのが、3月10日ですから、終戦まで、半年はかかっているのです。

終戦へのプランニングだけでなく、戦後は、長く務めた台湾総督の解任を願い出て、参謀総長に就任した源太郎。勝った戦でありおながら、ロシアから賠償金が取れないことで、国中から、不平不満が噴出する中、軍の立て直しと南満州の開拓が、大きな課題となったのです。
遼東半島南部の租借権と、東清鉄道の南半分(長い春から旅順・大連までのの間)を、割譲されたものの、鉄道の権利は、国営でなくて半官半民の規制がありました。対応を間違えれば、ロシアが出てくる可能性は捨てきれず、大陸の億まで入り込むのは慎重だった源太郎。大戦の傷もまだ深く、国内の復興もあり、闇雲な軍備の拡張にも消極的でした。

1906年7月5日敬愛するメッケルの訃報に、悲しみを抱えながら、南満州鉄道株式会社設立委員長となります。一月後の8月上旬。ドイツの陸軍大学で、メッケルの通等集会を行う際、追悼文を起草する傍ら、日本の未来だけでなく、満州が発展するための開発を考え、後藤新平に協力の打診をしました。しかし、ほんの数日後、後藤は源太郎に返事を届けることも、声を聴くこともできなかったのです。

7月23日。児玉源太郎は、自宅で急逝しました。死因は脳溢血。享年55歳。
これからという時を迎えた日本に対する、厳しくも悲しい天の采配だったかもしれませんが、彼を知る人たちは呆然としました。
葬儀の時、西南戦争も日露戦争も、ずっと源太郎に励まされてきた乃木希典は、最後まで棺に寄り添っていたそうです。