彼女の名前を知っている人もいれば、知らない人もいると思いますが、幕末というには早い黎明。鎖国中の日本で外国人の父と日本人女性の母の間に生まれ、幕末から明治時代は医師として活躍した“オランダおいねイネ”。
出生図を見ながらどんな生き方をしたのか、見てみようと思います。

ではいつもように人物年表から(ウィキ&複数資料参考)

1827年5月31日(文政10年5月6日)長崎市銅座町に生まれる。父はフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト。母は丸山町遊女 其扇(そのおうぎ、そのぎ)こと瀧。
1829年(文政12年)シーボルト事件によって父が国外追放を受け生き別れ。
1840年(天保10年)故郷の伊予の国宇和郡卯之町で町医者となった二宮は、医学の基礎知識を教えるためにイネを呼び寄せる。
1845年(弘化2年)二宮の勧めで石井宗謙の元で産科を学ぶ。
1852年(嘉永5年)イネ、長女タダを出産。父親は石井宗謙。
1855年(安政2年)再び宇和島に行き、二宮の元で医師活動開始。村田蔵六(大村益次郎)から蘭学を習う。
1858年(安政5年)日蘭修好通商条約
1859年(安政6年)父シーボルトの再来日と再会。ヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールトに師事する。
1869年(明治2年)京都にて大村益次郎が襲撃され重傷を負う。ボードウィンの元へ運び込まれた経緯から、見舞いや臨終に立ち会った可能性あり。
1871年(明治4年)異母弟にあたるシーボルト兄弟の支援で東京は築地に開業。
1873年(明治6年)永田町御用邸で明治天皇の女官葉室光子第一皇子出産立ち合い
1875年(明治8年)に医術開業試験制度実施 女性には受験資格がなかったためと、晧台寺墓所を守るため、東京の医院を閉鎖し長崎に帰郷。
1884年(明治17年)、医術開業試験の門戸が女性にも開かれるが、既に57歳になっていたため合格の望みは薄いと判断。産婆として開業する。
1889年(明治22年)娘高子(タダ)一家と同居のため長崎の産院も閉鎖し再上京。
1903年(明治36年)鰻と西瓜の食べ合わせによる食中毒(医学的根拠はない)のため、東京麻布で死去。享年77。

ホロスコープ:1827年5月31日 長崎県長崎市 12時設定


第1室 本人の部屋    ♍
第2室 金銭所有の部屋  ♎ ♃R(4°30)
第3室 幼年期の部屋   ♏ ☊R(14°8)
第4室 家庭の部屋    ♐
第5室 嗜好の部屋    ♑ ♆R(15°44) ♅R(27°54)
第6室 健康勤務の部屋  ♒
第7室 契約の部屋    ♓
第8室 授受の部屋    ♈ ♇(6°11)
第9室 精神の部屋    ♉ ♀(5°22)☿(28°3)
第10室 社会の部屋    ♊ ☀(8°50)♂(28°3)♄(♋5°36)
第11室 友人希望の部屋  ♋ ☽(7°19)
第12室 障害溶解の部屋  ♌

太陽星座 ♊
月星座  ♌

正午設定で☽♌7度。彼女の☽星座は♌とみていいでしょう。
惑星の分布を見るとスプレータイプに近い感じを受けます。北半球の星たちはすべて逆
行。変化の大きい人生ですが、手先が器用で好奇心旺盛。物覚えも良い方で、プライド
が高いけれど、強く努力を惜しまない傾向あり。社会的に成功することに価値観を見
出す性質の強いホロスコープを持ちます。細かなことを気にし始めると、苛立ちやすく
なって、運勢の歯車が狂いやすい傾向があると思います。

2室の♃と8室♇・3室☊と9室♀・5室♅と11室☽の三つのオポジションは、彼女の社会的なめぐり合わせや成功の柱。♅と♀・♀と☽・☽と☊の90°。3室の☊と5室の♆と♅が微妙なため、グランドクロスこそ形成していませんが、かなり強烈です。

そして☿♃♅のグランドトリン。♃と♅の逆行が惜しいけれど、この組み合わせはちょっとミラクルな運気拡張型。
10室☀は♂と合。♂は、他の星とはタッグを組まず、☀だけを援護しているように付き従っているので、♊の☀かなりエネルギッシュ。そして♇と☽とはセクスタイル。

♇は☽と調和。そして♄とは緊張角度ですが、宿命の弦のように張り巡らされたこれらのアスペクトは、苦労も伴うけれど、それに見合うような支援の手も途切れなかったイネの人生の土台となっています。


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両親の出会いとシーボルト事件

イネを語るには、彼女の両親の事から話すことになります。
母親の名はお瀧。商家の娘ですが実家が没落したことから、「其扇(そのおうぎ、そのぎ)」という源氏名を持つ長崎の花街円山町の遊女となった女性でした。

長崎の出島は長崎奉行の管理の元、交易していたオランダからやってくるオランダ人居留地で、立場も年齢問わず単身赴任が義務付けでした。そして出島に出入りを許されていた日本人も限られていて、その中に身請け屋を通した芸子や遊女もいたのです。
イネの母もその一人でした。経緯は様々ですが、出島ではオランダ人と芸子の恋バナはいくつかあったようで、幼児の長崎では、日本人とオランダ人のハーフがイネだけではなかったようです。

日本史の教科書にも出てくるので、シーボルトの名は知っている方が多いと思いますが、正式名はフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト。フィリップと呼ぶのが正式ですが、認知度のあるシーボルトで通します。
1796年2月17日ドイツのヴュルツブルク(現バイエルン地方)にあるドイツ医学界の名家に生まれ、ヴュルツブルク大学に入学後、祖父や父と同じ医学を専攻。

外科・産科・内科の博士号を習得する傍ら、民俗学に地理学、動物や植物などを含めた自然科学も研究しました。その中で東洋学研究に惹かれたシーボルトは、大学卒業後はオランダへ渡り、オランダ政府の信頼を得ると、オランダ領東インド陸軍病院の外科少佐として、インドネシアで軍医を務めたのです。

日本研究での希望をオランダ領東インド総督に申し出ると、5年間の赴任が認められて、1823年8月11日 (文政6年7月6日)。ドイツ人であることは伏せて、オランダ商館医として来日したのです。お瀧との出会いは赴任して一月後と言われていますが、この時シーボルトが27歳。お瀧15歳でした。
外国人は出島から日本内に足を踏み入れることができない決りがありましたが、長崎奉行をはじめ多くの人が、博識なシーボルトを大歓迎します。名医による西洋医療を受けられる事を多くの人が望みました。

シーボルト自身もそれを快諾したことから、長崎の町での診療が特別に認められ、出島の外に診療所を兼ねた西洋医学「鳴滝塾」を開講します。
高野長英・二宮敬作・伊東玄朴・小関三英・伊藤圭介といった塾生が集まり、オランダ語による講義を行い、医療技術を教えてゆきました。

日本の文化と動植物の研究に力を入れたシーボルトは、オランダ商人の江戸参府に随行し、第11代将軍家斉にも謁見。弟子を伴い富士山の測量も行いました。
外国人としては破格の待遇を受けながら、4年ほどの歳月が過ぎて帰国の時期が迫ってくる頃、お瀧との間に女の子が生まれました。

彼の名を当てて「失本イネ」と名付けた娘とお瀧を、彼は大切にしていたようです。
長崎歴史文化博物館には、川原慶賀筆の「蘭船入港図」という絵が保管されていますが、港がよく見える見晴台でオランダ船の入港を見守る男性と、その後ろに乳児を抱く女性を描いたこの絵のモデルがシーボルト親子と言われています。

イネが生まれた翌年の1828年(文政11年)。シーボルトは3年ほど本国に滞在し、また日本に戻ってくるつもりでした。これまで日本で集めた収集品を船に積み込み、帰国準備を進めますが、積み荷の中に幕府が禁制としていた日本地図(間宮林蔵の大日本沿海輿地全図の写し。略して伊能図)や、葵の紋服等が含まれていたのが発覚します。
いわゆるシーボルト事件が起きました。

発覚の経緯は、帰国船が暴風雨に見舞われて座礁し、積み荷からご禁制の地図などが発見されたというのが一般的でしたが、現在はこれが覆り間宮林蔵がシーボルトから受け取った手紙を、上司に渡したのが発端となって露見した説が有力です。
鎖国の日本でご禁制破りは重罪です。弟子たちを含む関係者数十人が捕まりました。

シーボルト自身も訊問を受け、科学的な目的のために情報を求めたと主張。彼はこの件
で捕まった多くの友人を助けるために、自身が日本に留まり、残りの人生を人質として過ごすので、彼らに罪を負わせないよう幕府に頼んだそうです。

幕府から伊能図の管理を任されていた天文学者高橋景保は、地図を渡した張本人として尋問を受けている間に獄死に至りますが、その後死罪判決が下り、彼の子供らは遠島という厳しい刑を受けています。その日本地図の返還を拒否したシーボルトには、1830年(文政13年)国外追放の上、再渡航禁止という処分が下りました。

再び日本へ戻るつもりだったシーボルトは日本を去る際、弟子の高良斎(こうりょうさい)と二宮敬作にお瀧とイネのことを頼み、以降オランダのライデンで暮らします。
因みにシーボルトが蒐集したものは、すべてオランダのライデン国立民族博物館に現在も展示されています。

10代から20代は医師を目指して勉強の日々。宇和島そして備前へ

事件当時2,3歳だったイネは、この事件で父親と生き別れになり、お瀧の叔父の元で暮らしました。母のお瀧は再婚の道を選び、もう一人女の子を授かります。
イネは本人の希望で、5歳くらいから寺子屋に通いました。読書好きで学習欲が強い彼女は、勉強は事欠かなかったようですが、家事手伝いをするのは消極的で、娘に女として必要なことを覚えてほしい母のお瀧とは、価値観のギャップから関係がうまくいかなかったようです。

致命的な悪さはないものの、彼女のホロスコープは北半球の星はすべてR。
子供時代において守り支える力は弱いので、どこか不安定な環境であること。気持ちをごまかす術を持たない子供時代に、♊の☀♂が興味を持ったこと以外は、見向かない性質を色濃く出たのかもしれません。

イネを主人公にした小説や劇、または彼女が出てくる作品では、幼少期のイネが混血であるために、ひどい差別を受けたという設定がほとんどです。確かに子ども同士の方が、世間体も遠慮もない分、残酷なことを言うのは想像に容易いですが、先にも書いたように、長崎の出島には外国人相手の遊女が出入りするのを許されていました。お瀧とシーボルトの他にも、オランダ人の恋は存在しているので、混血の子がイネだけとは限らず、それだけが理由でいじめを受けたとする設定は、さほど当たらないとみても良さげ。

さらに周りと仲良くできなくて寂しいとか、周りに嫌われたらどうしようと思い悩む性格なら、対人関係もいろいろあったと思いますが、イネの性格上、プライベートな対人関係は、わりとあっさり気味です。こだわりを強く持ったのは医学のため勉学で、大好きな勉強の邪魔をされると、激オコになったのではないか。そんなイメージが、ホロスコープからひしひしと伝わってきます。

一方シーボルトにイネのことを頼まれた弟子の二宮敬作ですが、事件に連座していたため、獄中で半年ほど過ごした後、故郷の宇和島へ帰りました。
1833年(天保元年)宇和郡卯之町で町医者を開業。貧しい人たちの診療もする西洋医がいる噂は、やがて地域全体に広まります。

7年後、14歳になったイネが二宮の診療所にやってきました。向学心に燃える彼女は、医学の勉強をするために、母親の反対を押し切り、長崎から伊予まで自力の一人旅をしてきたのです。現代ように飛行機も電車もない時代に、年端のいかない女の子が、相当な決意があっての行動だったと思いますが、こうと思えば行動する風属性に、獅子座の☽が行動力を支えたのかもしれません。

二宮は自分の息子と同じように、イネにも実践的な医学を教えてゆきます。
手先が器用でハキハキしているイネは、包帯の扱いなどもうまく、周りの人にも信頼されてゆきました。充実した数年間が過ぎますが、世の中的には渡辺崋山や高野長英が捕まる「蛮社の獄」が起こり、蘭学や西洋医学にする風当たりがきつくなってきます。

この時代、医者は男性の仕事でした。その上に世間の目が厳しい西洋医学。この軋轢は相当なもので、イネは髪を切り男のような格好で医療活動に励みます。
目的意識のハッキリしている性質なので、本人はそれで納得していたと思いますが、彼女の将来を案じた二宮は、1845年(弘化2年)。備前(岡山)で開業する鳴滝塾仲間、産科医石井宗謙の元にイネを派遣します。

この時代お産をする際、呼ぶのはお産婆でした。産科医はいましたが、すべて男性のため、産婆の手に負えない難産でも、医者を呼ぶことを妊婦も家族も避けてしまい、そのため母子ともに手遅れとなる事が多かったのです。
二宮の勧めもありましたが、お産の事故を少しでも減らすために、石井の元で産科を学ぶことを考えたイネは備前に移りました。

1845年から6年数か月、備前で真剣に産科を学ぶイネですが、師の宗謙は彼女に、だんだんと身の回りの世話や、私設秘書のようなことを要求します。
やがてそれがエスカレート。産科学を学ぶために行ったはずなのに、師のDVによってイネは独身のまま24歳で身ごもってしまったのでした。恩師の娘に手を付けたことを知った宗賢の妻は平謝りで、子供は引き取って育てると申し出ますが、イネはそれを拒否して長崎に帰ります。

1852年2月26日(嘉永5年2月7日)産婆の助けを借りずに、自力お産をします。自分でへその緒を切った。という逸話が残っていますが、生まれた女の子に「天からタダで授かった子だから」という理由で「タダ」命名すると、母親に子供を見てもらいながら、自ら開業をしてゆきました。

この辺りは風の☀と♂。5室にある♆と♅の逆行が、ドライで現実的な気質を強く出していると思います。逆に母のお瀧は、情の深い女性なのかもしれません。
2年後の1854年(安政2年)。長崎を訪ねた二宮は、石井宗賢を信頼してイネを預けたはずが、未婚の母となった彼女の状況を知ると、激怒と後悔に苛まれました。
そしてこのことは他の鳴滝塾の弟子にも知れるところとなり、石井宗賢は弟子の間で破門扱いの身になっています。

二宮は再びイネを宇和島へ呼び寄せました。
宇和島藩主・伊達宗城にも医師として信頼され、ちょうどこの時期、長州藩から出仕した医師兼西洋学者の村田蔵六(大村益次郎)が二宮の元を訪ねていたこともあり、イネは31歳になるまで、二宮から医学を学び、村田からオランダ語を学んでいきます。

そしてこの間、娘のタダは長崎のお瀧の元で育っていきました。
イネのことを取り上げた小説や、大村益次郎を主役に描いた小説では、この二人、恋仲になるものが見られますが、大村はよく言えば朴訥。悪く言えば無神経な面もあり、この当時奥さん連れ(良い人ですが嫉妬深い女性)。その状況と、イネは石井のDVに苛まれた経験と、寂しいから恋する気は乏しい可能性が高く、私的には「小説によくある作り話」で片づけています。

思いがけない再会

黒船来航以降、鎖国を解いた日本は、1858年(安政5年)日蘭修好通商条約も結びます。
これに乗じたオランダ商館長の強い願い出により、シーボルトの国外追放が解かれ、来日ができるようになりました。

女の厄年を迎える年のイネは、まさに運勢転換期。長崎での開業を決意します。二宮は息子に宇和島の医院を任せ、甥の三瀬周三を伴ってイネと共に長崎へ移ります。

そして1859年8月4日(安政6年7月6日)母のお瀧を伴ったイネ。オランダ貿易会社顧問として長崎に戻ってきたシーボルトの、約30年ぶりの家族対面が実現します。
因みにこの日12時設定で、T☀と♂♄は♌にありました。

T☀♂がイネのN☽と合。
T♇がN♀と合。
♊を進むT♅が、彼女の☀♂と合。

シーボルトは☀と♃と♇を水瓶座に。♊に♄と☽を持つ人で、☀も☽も風星座。
そして真反対の♐に♂を持っています。これが娘の☀♂と合であり、オポジション。
ものすごく意味深で、離れて暮らすだけはあるホロスコープといえます。そして血は水
よりも濃いと言いますが、同じ国で一緒に生活した母と娘でも、価値観の違いでギクシャクするのです。生活する国の事情や風土の違う30年という歳月。

夫はオランダで再婚し、今回は息子アレクサンダー(12,3歳)を伴ってきているし、妻も再婚してもう一人娘を生み、全く違う生計を営んできました。
当時赤子だったイネも、30を過ぎた大人。誰が悪いというのではなく、それぞれが違う立場で長く時間を積み上げてきた結果、元の親子関係に戻れなくても、無理なかったと推察できる再会だったようです。

それでもシーボルトは、医師として成長したイネの姿に喜び、二宮敬作に深く感謝をしました。懐かしい鳴滝塾があった場所にしばらく住み、医療講義などもしますが、やがて幕府の対外交渉顧問として1861年(文久元年)江戸に赴きます。
これに二宮の甥の三瀬周三が秘書として同行し、イネには長崎の海軍伝習所の医療所での物理学、化学、生理学、病理学を教えているオランダ人医師ヨハネス・ポンペが紹介されました。

ポンペの元で産科・病理学を学ぶだけでなく、伝習生たちと共に学ぶ機会を得たイネは、解剖学の実地にも参加。彼の後任として赴任したボートインからも西洋医術を学び、医療技術はさらに向上。医師として充実の環境でしたが、それでも悩みはありました。
それは娘タダの事。ずっと母親のお瀧に任せきりにしているため、文句は言えないのですが、医者としての勉強をさせたいと思っていたのに、勉強よりも三味線や琴といった芸事に熱心な娘が、母として頭痛の種だったようです。

祖母であるお瀧の隔世遺伝と影響も大きいと思いますが、タダの♓の☀に♆が合。
芸術や美的なことには惹かれるものはあり。☽は♉13°で♄・♅も同じく♉。そこに♈の♇とも合という三連星をもっています。
この三連星、イネの♀と合なので、お互いに嫌ではないけれど、価値観合わないというものは出てきそう。同時に本人、なんとなくトラブルを抱えやすい傾向も秘めています。

横浜と江戸に滞在したシーボルトですが、攘夷論者からの反対があり、一年もたたないうちに長崎へ戻ってきました。しかし同行者だった三瀬周三は、国情を知りすぎる事を幕府から問題視され、投獄されて帰ってくることができなかったのです。
息子のアレクサンダーをイギリス公使館の職員に就職させたシーボルトは、1862年4月10日(文久2年)。研究資料や美術品を船に積んでオランダへと戻っていきました。

そして同じ日の夜、恩師二宮敬作が脳溢血で急逝します。
イネにとっては父の帰国よりも、二宮の死の方がはるかにショックで、長崎の寺町皓台寺に彼の墓を建てると、彼が診療所を建てた宇和島の卯之町に分骨を送りました。
彼の甥の周三が釈放されたのは、それから2年後で、これには宇和島藩主伊達城宗の幕府への働きが大きかったようです。

見かねたお殿様より改名が下る。動き出す運勢大阪から東京へ

伊達政宗の血を引く伊達宗城公との縁も、二宮からきたものですが、1865年(慶応元年)イネにとって悩みの種だった娘のタダは13歳を迎えると、宇和島藩伊達家の奥女中として奉公を始めました。
土佐藩主・山内容堂、薩摩藩主・島津斉彬、福井藩主・松平春嶽、と交流を持つ「四賢侯」の一人であるとともに、宗城公は柔軟な思考のユニークな殿様です。

「いくらなんでも、その名前はないだろ」
「失本は縁起が悪いだろう」と、タダが産まれた経緯をイネから直で聞いたのか、タダ本人から聞いたのかは定かでないですが、二人の身を案じた殿様は、改名を進めました。

これによって娘のタダは「高」。(高子との表記もあり)イネは失本から楠本伊篤(くすもと いとく)と改名。(本編はイネで統一します)
イネも高も写真が残っていますが、イネは個性的なインテリ女性。高は整った顔立ちの女性で、松本零士氏の「宇宙戦艦ヤマト」のスターシャ、「銀河鉄道999」のメーテルは高がモデルといわれています。

1866年(慶応2年)。宇和島藩主夫妻の媒酌で、恩師の甥と三瀬諸淵(周三)と弟子の娘高は結婚します。伊達夫妻は高のことを非常にかわいがり、二宮の甥も目をかけていました。主権が徳川から明治政府へと移り変わる激動の日本に息子を残し、オランダに帰ったシーボルトは風邪の悪化で落命。そしてイネは頻繁に宇和島を訪ねる傍ら、オランダ医師マンスフェルトに師事して、医師として順調な日々を送っていました。

文明開化によって進路変更を余儀なくされる

1869年(明治2年)。お瀧が鬼籍に入ったのをきっかけに、高の勧めでイネは長崎を離れ、大阪に移り住みます。秋を迎える頃、三瀬諸淵(周三)の勤める大阪の病院へ、大村益次郎(村田蔵六)が、テロによって重傷を負い運ばれてきます。

小説やドラマではここが一つの山場で、当時横浜に行っていたイネが、大村の危篤を聞いて急いで戻り、看病して看取るという展開が主流。実際、大怪我を負った彼は、イネの師でもあるボードウィンによる左大腿部切断手術を受けた後、肺血症で亡くなりました。
伊達宗城公に蒸気船を作ることを依頼された大村こと村田蔵六とは、彼が二宮の元を訪ねてきたことで知り合います。

イネは彼にオランダ語を習ったので、大村に世話になったのは確かですが、病院が娘婿の勤め先であり、イネが師事しているボードウィンが執刀医であること。自らも仕事充実期であることと彼女の性質。現実主義な大村の性格を踏まえると、現実は違う展開だったかもしれません。

一方で日本のイギリス公使館に勤めていた異母兄弟アレクサンダーは、第15代将軍徳川慶喜の代行として、パリ万国博覧会へ参加する弟・徳川昭武の通訳として欧州へ随行し、そのまましばらく本国へ帰国していました。

そして弟のハインリヒ(シーボルト兄弟)を伴って来日すると、東京でのイネの開業を支援します。イネは異母兄弟の協力を得て大阪を離れ、東京の築地に産科を開業することになりました。

1871年(明治4年)には、福澤諭吉の紹介で宮内省の御用掛となって、明治天皇の女官葉室光子の出産に立ち会いました。残念なことに母子ともに亡くなってしまいが、その医学技術は高く評価されています。
時代が進み、国の体制が整ってゆく中で、1875年(明治8年)には医術開業試験制度が
始まりました。しかし、受験資格は男性のみ。これは医者=男がなる職業という認識が定着していたためですが、女性のイネには受験資格がありません。医師免許が持てないと、
これまで通り医師として患者と向き合うことができなくなってしまったのです。

長年渡り積み上げてきたことを断念するには、あまりに腹立たしく、そしてもったいない事ですが、晧台寺に眠る二宮の墓所も気になっていたイネは、東京の医院を閉鎖して長崎に帰郷することを決めます。

イネが長崎に帰って間もない頃、高の方にも変化が起きました。
1877年(明治10年)夫・三瀬諸淵に先立たれたのです。異母兄・石井信義の元で産婦人科を学びますが、片桐重明という医師に強姦され妊娠してしまったのでした。

生まれた男の子は亡き夫にちなんで周三と命名。
イネが高を妊娠した状況と似ていますが、高には医療に対しての強烈な思い込みがないため、自身が医業の道を進むのを断念。かねてから求婚を申し込んでいた医師・山脇泰助と再婚し、一男二女を授かります。

1884年(明治17年)ようやく女性にも医術開業試験の門戸が開かれました。
受験のチャンスを得るイネですが、既に57歳を向かえた自分に、合格の望みは薄いと判断。お産婆として開業することを選択します。

急変したその時は途方に暮れるものの、こちらの道が塞がれれば、あちらの道を選択する。これを躊躇なくできるのは、確かな技術があるのと同時に、変わり身の早い柔軟の風属性を持つ彼女の気質が大きく関わっていると思います。

高は再婚して順調に暮らしていましたが、山脇が病死して再び未亡人になり、年齢の進んだイネは、医療活動を完全に廃業。人生の岐路に立つ二人を、異母兄弟ハインリヒ・フォン・シーボルトは東京に呼びました。
以降、イネと高は彼の世話を受けて東京で暮らします。高は気が引けたのか、幼少時に熱心だった芸事を教えることで、若干の生計を立てはじめました。

その成り行きを見て、娘が幼い頃には芸事を全く理解しなかったイネも、これで生計が成り立つという事を知り、高を見直しています。
波乱に満ちた生涯ですが、最後は面倒見の良い異母兄弟によって、実の娘と落ち着いた余生を送ることができたイネ。現代を生きる女性にも通じる部分や、学ぶ点があると思いますし、占い的には親子の縁。というものを学ぶことのできる人物だと思います。

長崎に行かれる機会がありましたら、鳴滝塾やシーボルトと同時に、彼女の足跡も訪ねてみてください。