皆さんは「からくり人形」をご存知ですか? 台座に据えつけられた人形が、自動で前後したり太鼓を叩いたり、お茶を運んでくる和人形を「からくり人形」と言います。その始まりをたどれば、日本書紀辺りまで戻っちゃうほど古い歴史が古く、戦国時代に西洋式ともいえるゼンマイ式が迎合します。
祭礼の山車など庶民を和ませる文化にも浸透し、江戸時代には一大娯楽の役割を果たしました。当然そこには人形を作る技師人がいます。これまで幕末明治の「武士」または「武家女性」を追ってきました「星座と星から物語る日本の紳士と淑女たち」。今回はエンジニア。東芝の創設者であり、時の魔術師田中久重の登場です。

本題に入る前に、ちょっと江戸文化

1799年10月16日(寛政11年9月18日)。筑後国久留米城下(現・福岡県久留米市)通町十丁目の鼈甲細工師・田中弥右衛門の元に長男として生まれた儀右衛門(後の田中久重)。時の将軍は10代家治。光格天皇(孝明天皇の父)の時代です。
父親の遺志に従っての人事とはいえ、優秀でキャラの濃い田沼意次が側用人だったのもあり、家治は目立たない将軍ですが、利発で学問好きな面と倹約に関しては祖父の吉宗以上でした。大奥の経費を吉宗の頃よりも、三割削減を実現したという数字が評価されています。これには奥様(閑院宮直仁親王の娘・倫子女王)一途の愛妻家&生まれた姫二人が可愛くて、男子を設けるために側室を持つ、当時の風習をためらった事も一役買っているとは思います。今でいうイクメンを先取りしたようなパパだったのかもです。

歴代将軍が学問を重んじていたこともあり、江戸や上方(今の大阪)に限らず、江戸時代中期から後期はどこの藩も教育熱心でした。上級武士の子どもたちが集まる藩校はもちろん、下級武士の子どもが通う地域ごとの塾(会津藩の什などがそれ)。それだけではなく、商家をはじめとする庶民の子どもたちにも、読み書きそろばんができることを徳川幕府は奨励したのです。
藩によってその数の違いや、子どもを通わせる家とそうではない家等、個々の差はあったと思いますが、寺院などで手習師匠が子供たちに読み書きを教える場を、江戸は「筆学所」上方は「寺子屋」と呼びました。寺子屋の方が耳慣れていてわかりやすいですね。
文字を教えるだけでなく、実生活に必要な書簡のかき方や地理。作法なども教えていたところもあるようです。一寸子花里(いっすんしかり)という浮世絵師の作品に、「寺子屋の筆子(生徒)と女教師」という絵があり、当時の雰囲気を垣間見ることができます。

天文学では伊能忠敬の師である高橋至時は『寛政暦』を完成させました。弟子たちにはテイコ・プラーエやケプラーの理論を取り入れた学習を施しています。子午線一度の距離測定をはじめ、測量や正確な日本地図などが作られ、版画印刷が普及したのもこの頃です。
簡単な読み書きができる分、文化や娯楽も発達した江戸文化は町人の娯楽も盛んになり、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』やお芝居の筋書きを読んで楽しんだそうです。

料理本に婦人雑誌を始め、時代劇でおなじみの瓦版(今のタブロイドペーパー)なども手軽に入手して、人々は事象に注目したり、四季を通じで様々なことを楽しんだのでした。一寸子花里(いっすんしかり)という浮世絵師の作品に、「寺子屋の筆子(生徒)と女教師」という絵があり、当時の雰囲気を垣間見ることができます。

ユーモアとセンスで人を驚かす発明家

そんな寺子屋に通う儀右衛門。テレビアニメの「キテレツ大百科」の主人公、キテレツ君を地で行くような人で、自分の創意工夫した作品を、同じ寺子屋に通う友達に見せて触らせて、その驚く顔を見るのを楽しむ少年でした。
幼い頃「からくり人形」に魅せられた儀右衛門は、『機巧図彙』(からくりずい)今でいうハンドブックを片手に、試行錯誤を繰り返しからくり人形を作ることに浸透してゆきます。いつしか周囲から「からくり儀右衛門」と呼ばれるほどになった儀右衛門は、家督の鼈甲細工を次男に継がせ、20代でからくり人形師となるために上方へ向かったのでした。

九州各地や大阪・京都・江戸でも興行を行い、日本の各地を回りつつ、試行錯誤の末に作った数々のからくり人形。現存するもので「弓曳童子」と「文字書き人形」がありますが、からくり人形の最高峰ともいわれる作品です。各地にその名を知られるようになった頃、南蛮貿易で入ってきた西洋の時計を見て興味を持った儀右衛門は、50代で天文学の大家土御門家の門を叩きます。年齢や世間体や様々なものを越えてしまうほどの物を作りだす生み出す熱意は、1850年(嘉永3年)に、天動説を具現化した和時計・須弥山儀(しゅみせんぎ)を生み出し、蘭学者廣瀨元恭が営む「時習堂」(じしゅうどう)に入門。西洋の天文歴や数理を学び、その翌年の1851年(嘉永4年)。

西洋と東洋の時計。と曜日や二十四節気、旧暦の日付、月の満ち欠けを備えた全自動で動く時間の玉手箱「万年自鳴鐘」を完成させたのでした。季節によって昼夜の時刻の長さの違うのは、現在では当たり前のように受け止めていますが、それを江戸時代に時計で表現するのは、ものすごいことです。
そして「万年自鳴鐘」は現在、国立科学博物館の地球館の2階に展示されていますが、精密な機械であると共に、文字盤の金属加工や四面に施されたエナメル加工。螺鈿細工はとても美しく、彼が精巧な技を持つ鼈甲細工の血筋であることが伺われる芸術です。
和時計・須弥山儀(しゅみせんぎ)と「万年自鳴鐘」を作った頭脳と技術は、日本初の蒸気船や電話機の開発にまで進んでいきますが、果たしてどの星からきているのか見てみたいと思います。



1ハウス 本人の部屋    やぎ座
2ハウス 金銭所有の部屋  みずがめ座  冥王星(♓1°) 
3ハウス 幼年期の部屋   うお座
4ハウス 家庭の部屋    おひつじ座 node(♉6°) 月(♉17°)
5ハウス 喜びの部屋    おうし座  
6ハウス 健康勤務の部屋  ふたご座 木星(♋1°)
7ハウス 契約の部屋    かに座 土星(♌9°)
8ハウス 生と死の部屋   しし座
9ハウス 精神の部屋    おとめ座 天王星(♍24°)火星(♎12°)水星(♎16°) 太陽(♎22°)
10ハウス 社会の部屋   てんびん座 金星(♎24°)海王星(♏13°)
11ハウス 友人希望の部屋  さそり座
12ハウス 障害・溶解の部屋 いて座

てんびん座に揃う4個の吉星。火星・水星・太陽金星軍団が目を引きます。その四連星を改革の天王星と秘め事の海王星がを守るように挟んでいます。
沈着冷静で手先が器用。頭の回転も速いけど、せっかちではなく、どこまでもマイペースに創意工夫を凝らすことをいとわない性質。

海王星は過敏な性質な星で、もろさを伴いますが、理数系や技術系。または工学の方には、柔軟さやひらめきを与えているのでは?と思うことが、これまでもよくありましたが、田中の海王星は志向を深めるさそり座にあり、おうし座の月と向かい合っています。

知識は失敗より学ぶ
事を成就するには
志があり 忍耐があり
勇気があり 失敗があり
その後に成就があるのである   田中久重

これは彼の残した言葉ですが、自分の意見やポリシーをしっかりと打ち出し、常に人を楽しませたい、脅かせてみたい。チョットした悪戯心からやる気スイッチが入って、試行錯誤の末に発明してゆく彼の精神面を見せてくれています。
 絶妙なバランス感覚と手先の器用さ、鋭敏さはてんびん座の4惑星が、学ぶ姿勢を常に崩さなかったタフネスな生き方をしし座の土星が、そして冥王星と木星とてんびん座の金星は、彼の対人関係をバックアップしているのかもしれません。発明の履歴ともいえる彼の年表も見てみます。年齢は数えです。尚、彼の発明した作品は、田中久重で検索するとウォッチできます。

1807年(文化4年)数え年9歳で、開かずの硯箱を製作。
1819年(文政2年)21歳 地元の五穀神社でからくり披露。
1824年(文政7年)26歳 大坂などでからくり興行。
1834年(天保5年)36歳 大坂移住、懐中燭台発明。
1837年(天保8年)39歳 京都移住、無尽灯発明。
1849年(嘉永2年)51歳 土御門家に弟子入りの後、「近江大掾」の称号を得る
1850年(嘉永3年)52歳 須弥山儀の完成。
1851年(嘉永4年)53歳 万年自鳴鐘が完成する。
1853年(嘉永6年)ペリー来航の年。佐野恒民を介して佐賀藩主と縁を持ち、55歳 佐賀藩の理化学研究所(精錬方)に勤め出す。
1855年(安政2年) 57歳 蒸気車・蒸気船の雛形製作 。
1862年(文久2年) 64歳 佐賀藩電流丸の蒸気ボイラー完成 。
1864年(元治元年)66歳 久留米移住、久留米・佐賀兼務
1865年(慶応元年)67歳 国産初の蒸気船凌風丸完成(佐賀)。
1865年(慶応2年) 68歳 久留米で大砲鋳造、蒸気船購入のために上海に密航。
1867年(慶応3年) 69歳 英国外交官アーネスト・サトウと会見。
1868年(明治元) 70歳 明治天皇の艦閲式に佐賀藩電流丸(田中久重父子製作の汽罐)が旗艦となる。
1873年(明治6年) 75歳 東京に転居
1874年(明治7年) 76歳 電信機の製造を開始
1875年(明治8年) 77歳 東京・銀座に店舗兼工場を構える
1878年(明治11年)80歳 電話機を試作、報時器を製作
1881年(明治14年)83歳 東京の自邸にて永眠。

奇才と妖怪の出会いがかみ合い動く、文明開化の歯車

占星術的には1851年5月。天王星がおうし座入り。夏至を越えた夏ごろには冥王星がおうし座入り。アメリカのゴールドラッシュや、日本の幕末明治の大変革は、革命の星と始まりと終わりを告げる星が、揃っておうし座にいた時期だったのです。
地の星座であり、豊かな大地をイメージさせるおうし座だけに、それぞれの国が根幹的に変わるため、より多くの人の人生が変節に翻弄されたのかもしれません。

天文学を習うために土御門家の門を叩いた久重にとっては、優れた職人に贈られる「近江大掾」(おうみだいじょう)という受領名を受けた後、最高傑作の「万年自鳴鐘」を完成させた年に当たります。彼の持つおうし座のnode、そして月が進行中の天王星と冥王星に刺激されるのですが、佐賀藩士佐野恒民を通して、蘭学狂い、はたまた妖怪と呼ばれた第10代肥前国佐賀藩主鍋島直正(1815年1月16日生)と出会いが、久重の物づくりのフィールドを大きく変えてゆきます。

直正にスカウトされた久重は、佐賀に移り住み、肥前国佐賀藩の精煉方に着任。
精錬方とは鉄鋼と加工技術だけでなく、大砲、蒸気機関、電信、ガラスなどの研究・開発・生産を行う、佐賀藩が直政の元で作り上げたハイテク理化学研究所です
1808年(文政5年)にナポレオン戦争のあおりを受けたイギリスのフリゲート艦が、長崎港に乗り入れ、オランダ商館を引き渡すよう要求したフェートン号事件。そしてシーボルト台風(1827年9月17日。九州や中国地方に深刻な被害を与えた台風)による大打撃を受けた佐賀藩は、藩主が直正に代わって以降、西洋式の開発を進めます。

従来の大砲よりも飛距離が出て重さのないアームストロング砲の開発をするために、ペリーが来る2,3年前には反射炉を建設し、長崎港の警備を共同で行っていた福岡藩と共に牛痘ワクチンを輸入することで、天然痘撲滅の礎となった佐賀藩は、画期的なことを進める藩だったのです。(あまり教科書には出てこないことですが)
ロシアの使節団が長崎に寄港した際に、模型蒸気機関車を披露したことにも刺激を受けた直正は、公開情報を元に蒸気機関の開発を進めるため、機械工学や理数系に長けた人材を精錬方へスカウト。久重にも声がかかったのでした。

藩の蒸気船「電流丸」の蒸気罐製造の担当となり、1862年(文久2年)には、幕府の持つ蒸気船の修繕を担い、翌年には国産初の蒸気船である「凌風丸」(御召浅行小蒸気船)建造の中心的メンバーに久重の名前があります。
元々久留米出身だった久重は、佐賀から久留米に帰り、佐賀と久留米。両藩を行き来しつつ、軍艦購入や銃砲の鋳造に携わることで久留米藩の殖産興業等にも貢献しました。
1865年(慶応元年)には「凌風丸」が有明海内の要人輸送に活用していますが、当の久重は蒸気船の買い付けのために、この時期なんと上海へ密航しています。
若い20代の青年外国に憧れて……、ではなく、もう70に手が届く老齢期ですが、モノづくりにかける彼の情熱は衰えず。フットワークの良さで自ら動き、様々なものを自分の目で見て、手で触れて頭をフル活用していました。

作るだけでなく、人と交渉することも臆せず行うのも、てんびん座の4惑星効果でしょうか。かに座の木星に天王星がヒットする年、イギリス外交官アーネスト・サトウと会見。活動的になるほど動く風星座であり活動宮の気質を物語っていると思います。
蒸気機関だけでなく、戊辰戦争に使用された銃や大砲の設計にも関わり、品川台場に施された砲台にも、久重の作った四斤砲がつけられました。

直正が隠居した佐賀藩は藩主が11代鍋島直大に変わります。しかし有数の技術力と軍事力も持ち大薩長土肥に数えられつつ、幕府に着く藩にも勤皇に走る藩にもならない佐賀藩のスタンスは変わらないまま1867年(慶応3年)のパリ万博へ工業技術を出展。
大政奉還、王政復古もスルーしていましたが、直大が新政府から北陸道先鋒に任命されたため、とうとう佐賀藩兵も戊辰戦争に参加を余儀なくされます。

一足先に武器は新政府軍に採用され使われていましたが、江戸における上野戦争などで戦った結果、明治政府に多数の人物が登用されました。その中でも久重を直正に会わせた佐野常民をはじめ、副島種臣・大木喬任・江藤新平・大隈重信・島義勇(鍋島直正を加えて佐賀の七賢人と言われる人々。後に島と江藤は佐賀の乱で敗れて刑死する)は明治時代を支えてゆきます。

明治天皇の艦閲式に田中久重父子製作の汽罐。佐賀藩電流丸が旗艦となった後、文明開化の明治を迎えて70を超えた久重は、
製氷機や精米機。自転車に写真機と、再び生活に密着しているものを作り出します。
これらの機器は、いずれも現代に通じているものばかり。

今の私たちが暮らす便利な時代の基礎を作ってくれた一人が、からくり儀右衛門こと田中久重です。そして1873年東京に移住した久重は、銀座に電信機関係の製作所である「田中製作所」を設立します。養子であり二代目田中久重がこれを芝浦に移し、現在の東芝の基礎を作りました。

JR久留米駅の駅前に大きなからくり時計があります。田中久重が製作した太鼓時計をモチーフに、久留米市制施行110周年記念に作られたもので、定時になるとからくり儀右衛門が現れて彼が発明した無尽灯、からくり人形、万年時計、蒸気機関車について語ってくれるそうです。機会があれば是非。
そして田中久重で検索すれば、からくり人形や万年自鳴鐘をはじめ、彼が世に送り出した作品はウォッチできます。

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