江戸時代=鎖国。というイメージがありますが、特定の場所で特定の外国とだけ交易するのが可能だったのは、徳川幕府の政策だけでなく、世界各国に機械文明が発達していなかったという事情もありました。
産業革命以降、蒸気機関を発達させた欧米諸国は、航路においても長距離航海を可能にしたことから、自国をより豊かにするための物資や人(奴隷)の確保。マーケットを求めてアジアに植民地の版図を広げてゆきます。
1870年代後半(寛永年間)には、ロシアやイギリス、フランス等の黒船(これは外国船の総称)も、日本近海に姿を見せていたこともあり、オランダは他国が通商を求めて日本にくることを、徳川幕府には伝えていたそうです。
1853年(嘉永6年)7月。ペリー提督の率いる4隻の艦隊(内蒸気船は2隻)が、浦賀に来航した黒船来航後、開国か鎖国か、佐幕か勤皇かをめぐって日本は揺れ、やがて日米和親条約を修補する全9箇条の下田協約をはじめ、日露・日蘭の追加条約調印などが進んだのは、欧米の熾烈な植民地争奪戦も背景にありました。
黒船来航の年、12代将軍徳川家慶が死去することから、四男である徳川家定が13代将軍に就任します。そして「イモ公方」と呼ばれた家定の正室となる姫を乗せた籠が、江戸の薩摩藩邸に入ります。

薩摩藩主・島津斉彬の養女となり、名前を篤姫と改めた姫は、島津家一門今和泉家の当主・島津忠剛の元に長女として生まれた一(かつ)。13代将軍の元に嫁いだ後、夫の死と徳川幕府の終焉を前に、何があっても故郷の薩摩に帰ることなく、明治入ってからは徳川家の存続のために動いています。
明るく聡明な彼女を好きになる方は多いと思いますが、実際どういう方なのでしょうか。
将軍家定との関係と彼女の道のりを星回りで見てみたいと思います。

1835年2月5日(天保6年12月19日)
薩摩国鹿児島城下上竜尾町大竜寺馬場(現在の鹿児島県鹿児島市大竜町の区域)生まれ。
2月5日生まれなのでみずがめ座の女性ですが、
篤姫のネイタルは下記のとおりです。

第 1室 本人の部屋    おうし座  木星・ノード
第 2室 金銭所有の部屋  ふたご座  火星 
第 3室 幼年期の部屋   かに座
第 4室 家庭の部屋    しし座
第 5室 喜びの部屋    おとめ座
第 6室 健康勤務の部屋  てんびん座 土星
第 7室 契約の部屋    さそり座
第 8室 生と死の部屋   いて座   金星
第 9室 精神の部屋    やぎ座   海王星
第10室 社会の部屋    みずがめ座 太陽・水星・天王星
第11室 友人希望の部屋  うお座   冥王星
第12室 障害の部屋    おひつじ座 月
 
月と金星は 土。
火星は 水。
冥王星は火。
太陽・水星・天王星・海王星は風星座みずがめ座にあり、ふたご座には入りたての木星にノード。てんびん座には土星と風星座に星が多いのが目につきます。
実際彼女は言葉と文章に力があり、ハリス提督が江戸城を訪れた際に贈ったミシンを、初めて使った日本人女性ともいわれるあたりは、古きものと新しいものをうまく融合させるアクエリアンな「風」女性であることがうかがえます。
大の犬好きで狆を何匹も飼っていたそうですが、夫となる家定は犬が苦手であることから、大奥では猫をかわいがった逸話が残っています。

徳川家定は、1824年5月6日(文政7年4月8日)生まれ。
父の徳川家慶には正妻と側室併せて男14人女13人の子供がいましたが、病弱なため家定が成人するまでにすべて他界しています。家定も体が弱く、幼いころから好んで外に出ることも少なく、人に会うのも嫌う性格だったといわれ、そのため、家慶は徳川慶喜(一橋家)を将軍継嗣にと考えますが、老中たちの反対で家定に決めたそうです。
老中をはじめ気心の知れた身近な者たちに、自作のお菓子をふるまうのが趣味というスィーツ男子なところから「イモ公方」と呼ばれたがありますが、太陽おうし座な彼は、周りの人には慕われたのかもしれません。

第 1ハウス 本人の部屋   しし座 
第 2ハウス 金銭所有の部屋 おとめ座  火星
第 3ハウス 幼年期の部屋  てんびん座
第 4ハウス 家庭の部屋   さそり座
第 5ハウス 喜びの部屋   いて座 
第 6ハウス 健康勤務の部屋 やぎ座   海王星・天王星・ノード
第 7ハウス 契約の部屋   みずがめ座
第 8ハウス 生と死の部屋  うお座   冥王星
第 9ハウス 精神の部屋   おひつじ座 金星・太陽
第10ハウス 社会の部屋   おうし座  土星 水星
第11ハウス 友人希望の部屋 ふたご座  木星 
第12ハウス 障害の部屋   かに座   月 

実は家定。公家から正妻を二回迎えていますが、どちらも早世しています。家定も病弱なため、先行きを案じた彼の母本寿院は、11代将軍家斉の妻として徳川家に仕えた島津家出身の茂姫。広大院にあやかり、正妻候補を島津家に求めました。
この時、島津家に適齢期の姫のいないことから、一門である今和泉家の一に白羽の矢が立ちます。
将軍家に輿入れするため、一は18歳になる頃第28代目当主斉彬の実子源 篤子(みなもとのあつこ)となり、1856年(安政3年)に右大臣・近衛忠煕の養女を経て、1857年1月13日(安政3年12月18日) 家定と結婚します。
篤姫の月と家定の太陽の合。
篤姫の太陽に対して家定の月の対。
二人の双方の太陽と太陽。
月と月はどちらも90度。
双方の冥王星が合。
家定33歳、篤姫21歳。年の差婚であることを物語るように金星土星の対が気になるところだし、他にも良い組み合わせと厳しい組み合わせどちらもありますが、今のような自由恋愛ではまったくなく婚礼という目で見れば、おうし座の太陽と月。これはかなり理想的な組み合わせあり、実際、二人はとても仲の良い夫婦になったそうです。

米総領事館のハリスが江戸城を訪れ、家定に謁見して国書を渡すことから、1858年1月25日(安政4年12月11日)、日米修好通商条約交渉が始まりますが、 勅命を聞かず事後報告となった条約勅許を孝明天皇は拒否。天皇系と徳川幕府の間に溝が生じ、安政の大獄も始まる1858年の8月14日(安政5年7月6日)。家定が急死(35歳)してしまいます。
結婚して1年9か月。新婚期間といってもいい時期に夫を失った篤姫は、落飾して戒名は天璋院殿従三位敬順貞静大姉。ここから天璋院と名乗るようになりますが、まるで将軍の後を追う如く10日後に、島津藩主島津斉彬が死去し、彼女はわずか10日の間で最愛の夫と従兄弟であり養父の斉彬を亡くしました。
この二人が他界する間に、幕府は外国奉行を設置し、日蘭修好通商条約調印に日露修好通商条約調印と、立て続けに開国色を強めます。悲観に暮れる間もなく天璋院は前将軍の妻として、徳川家茂が14代将軍の任に就くことを認め、大奥を仕切っていきます。

桜田門外の変や江戸城火災などもあり、元号を安政から万延に改めたころ、国内平定のための宮家と徳川家和合の象徴として、孝明天皇の異妹である和宮を降嫁させる話が色濃くなり、薩摩藩は天璋院に帰国を促します。未亡人なので離婚とは違い、戻る名目もあるし、帰れば気楽に暮らせるはずの身です。
しかし、彼女が首を縦に振ることはありませんでした。家定への気持ちを翻すことながないこともありますが、若干13歳の家茂自身が、良き将軍としてあるために自ら文武に励む姿と、勝海舟をはじめ家茂の成長を楽しみ慕い仕える家臣たちのことも考え、大奥を離れなかったのです。
みずがめ座は自由人であるとともに、博愛色を非常に好む気質と、自分が「こうと決めた」ことは、簡単には変えない性質を兼ね備えていますので、星座から見てもこの選択はありだと思います。
 
物議をかもした和宮降嫁の後、1866年8月29日(慶応2年7月20日)。
第二次長州征伐のため、大阪へ向かった将軍家茂が病死してしまいます。(享年20歳)若き名君を失った幕臣たちの間に暗澹たる空気が流れる中、次期将軍が幼すぎるため、将軍後継人として事実上15代将軍は徳川慶喜が選ばれます。
そして、年明けの1867年1月30日(慶応2年12月25日)。
今度は孝明天皇が崩御してしまいます。家茂が亡くなる前、降嫁の際伴ってきた和宮の実母・観行院の卒去があり、落飾し静寛院を名乗った和宮は、間を開けることなく異母兄も失ったのです。
大奥の生活になじめず京都に帰りたがっていた和宮が、静寛院宮を名乗り、大奥にとどまる姿を見た天璋院は、彼女との間の隔たりを溶かしてゆきます。

1867年2月13日(慶応3年1月9日)、明治天皇が即位する中、朝廷と幕府が穏やかにまとまることを願う天璋院と静寛院宮は、それぞれに朝廷と幕府の間をとりなすため苦心しますが、15代将軍慶喜は、公武和平の念を書いた静寛院宮の手紙をすべて黙殺してゆきます。

1868年1月25日(慶応4年1月1日)、慶喜の「討薩表」が引き金となり、彼の入京を阻止したい薩摩兵の一斉射撃が戊辰戦争の口火である鳥羽伏見の戦いを起こしてしまいます。
朝廷が仁和寺宮嘉彰親王に錦旗と節刀を与えたことで、薩長軍は官軍となり、船で海路大阪から江戸に向けて逃げた徳川慶喜に追討令が出てしまいます。徳川家および旧幕府は、朝敵の位置に立ってしまい、天璋院は実家である島津家が、静寛院宮は朝廷が将軍の敵となってしまったのでした。

大阪から逃げてきた徳川慶喜は、天璋院に静寛院宮へのとりなしと謁見を求めます。朝廷と徳川家の間を案じ、これまで何通もの手紙を書いて頼んでも無視をしてきて、都合のいい時だけ頭を下げる慶喜の姿に心底嫌悪した二人は、陸軍総裁(後に軍事総裁)に任命された勝海舟に、どちらも江戸城から下がることない意志を伝えます。

1868年4月5日(慶応4年3月13日)、幕府全権として新政府軍との講和を目指す勝から、13代将軍の御台所である天璋院篤姫と、14代将軍の御台所である静寛院和宮の意志を知った西郷隆盛は、かなり困惑します。江戸城総攻撃を中止した理由として、英国公使パークスからの圧力もあったようですが、孝明天皇の異母妹和宮が江戸城を動かないこと。
彼女は明治天皇の伯母であり、東海道鎮撫総督である橋本実梁とは従兄妹の間柄。東征大総督有栖川宮とはかつて婚約者だったこと等、大総督府首脳部との縁故が強く無視ができません。そして同じく公族の公現入道親王(後の北白川宮能久親王)が、前年に輪王寺門跡を継承した上野寛永寺から動かないこと。
さらに西郷が敬愛する島津斉彬の養女である天璋院篤姫。夫家定亡き後、自らの意志で大奥に残り、徳川家のためにガンと動かない彼女に、西郷は弓を引くことができなかったと思います。
対談は江戸城総攻撃から徳川家の処遇へと軸が代わったこの時、篤姫の太陽は進行中の冥王星(おうし座)と緊張角度があり、木星は進行中の土星(いて座)と対とシビアですが、生きる喜びの金星は優しい組み合わせがあるので、静かに幕引きが可能だったのでしょう。
無血開城を迎えた江戸は東京と改称し、元号も明治へと変わり、明治天皇が東京へ皇居を移します。


大奥を出た天璋院は、徳川宗家邸で暮らしました。元々、自由が好きで社交的な彼女は、徳川家の人間として勝海舟や旧幕臣たちと活発に交流し、すっかり仲良くなった静寛院とも度々会い、大奥を仕切っていた時と違う生活を楽しんだそうです。
生活費は討幕側となった島津家からもらうことなく、生まれ故郷へ里帰りすることもありませんでしたが、明治10年。箱根塔ノ沢で静養する静寛院宮を見舞うため、生涯唯一の旅行をします。
出会った時は嫁姑の立場であり、育った風習の違いからひどく拗れた二人ですが、幕末から明治へ時代が変わる中、最も気持ちが近い間柄になったのでしょう。箱根につくものの、一足早く薨去した静寛院宮を惜しみ、天璋院は和歌を贈っています。

明治16年(1883年)11月13日、脳溢血で倒れますが、自分の所持金を切りつめても、大奥関係者の就労や縁談にも親身になるのは、彼女の博愛精神と面倒見の良さからくるのでしよう。
11月20日、49歳の若さでこの世を去りますが、自分のことよりも周りの人たちのことを思う気質を物語るように、死後に確認された所持金は3円(現在の6万円ほど)しかなかった逸話も残っています。そしてその葬儀には実に多くの弔問客が訪れたそうです。

前回がかに座の和宮。そして今回みずがめ座の篤姫を見てきましたが、どちらも今のような好きな人と結婚したり好きなように暮らすことができない時代のお姫様でしたが、時代の要にいて、ここ一番。自分の意志で踏みとどまり、使命を自覚した彼女たちは普通の女性であるとともに強い運気と気質を宿していたと思います。