一匹のサソリが大きな川のほとりにやってきました。向こう岸に渡りたいのですが、泳ぐことができません。 そこで、そこにいたカメに頼んでみました。
「カメさん、向こう岸まで、背中に乗せて、渡してくれないかい?」
カメは首をふって、断りました。 「イヤだよ。おまえは毒針で刺すからね」
「刺したりしないよ。ぼくは泳げないから頼んでいるんだ。川の途中で刺したりしたら、ぼくも溺れて死んでしまうから、刺すわけないじゃないか」

そのサソリの言葉に、カメは「それもそうだな」と思いました。そこで、カメは背中にサソリを乗せてあげて、川を渡り始めました。しかし、川の中程まで来たとき、サソリはカメをチクリと刺しました。
水に沈んでいきながら、カメが「なんで刺したんだ?」と聞くと、サソリも溺れながら「刺さずにはいられなかったんだ」と答えました。
カメはサソリのことを怒りませんでした。
この話を聞いた、アリとカエルとメダカは、こう言いました。
アリ「カメの気持ちがわかる気がする……」
カエル「カメの気持ちがさっぱりわからない! 自分だったらサソリは許せない!」
メダカ「そもそもサソリなんか乗せるからいけないんだ。カメも悪いんだよ」

あなただったら、アリとカエルとメダカ、どの意見にうなずきますか?
心が決まったら解説を読んでください。



このテストから学ぶテーマ
「誰の心の中にもある“愚かさ”」

これに似た民話は世界中にあります。 そして、それぞれに少し違っています。
たとえば日本では、毒ヘビが船頭さん(人間)に、川の向こう岸まで船に乗せてくれと頼みます。川の途中で毒ヘビは船頭さんを咬み、船は沈んで、船頭さんも毒ヘビも死んでしまいます。「毒ヘビは所詮、毒ヘビなのだから、信用してはいけない」というような教訓が最後についています。
中東でもやはり人間と毒ヘビの組み合わせで、とぐろを巻いた状態のまま寒さで凍って死にかけている毒ヘビを、かわいそうに思った人が、自分のふところに入れて温めてあげます。息を吹き返した毒ヘビは、その人のお腹にかみつきます。
「悪いやつに親切にしても、悪いことをされるだけだ」というような教訓が最後についています。
この二つの類話では、「悪いやつは、どんなときでも信用してはいけない。気をつけよう」という教訓話になっているわけです。
でも、これらはそれだけの話でしょうか? 毒ヘビが人間を殺したというだけなら、たしかに「悪いやつには気をつけろ」ですが、毒ヘビ自身も死んでいるのです(中東の場合も、温めてくれる人が死んでしまえば、毒ヘビもまた寒さにやられます)。
自分が死ぬこともわかっていながら、悪いことをしてしまう。そこがこれらの民話の重要なポイントだと思います。
なぜそんなことをしてしまうのか?
こういうことは現実にも少なくありません。

たとえば、今は原発事故が問題になっていますが、設計に問題があるとわかっていながら、会社の経営のために黙っていたり、納期に間に合わせるために、手抜き工事をしたりということを、関係者が告白しています。その真偽はともかくとして、そういうことは他の事例でもよくあることです。
原発事故が起きれば、世界中が他人事ではいられません。自分だけトクして、ソンは逃れるというわけにはいきません。ソンは自分にもふりかかってきます。それなのに、やってしまう。
お金と命を比べれば、誰だって命のはずです。なにしろ死んだのでは、お金は使えませんから。 でも、命よりお金をとるようなことを、しばしば人はしてしまいます。

お金だけに限りません。家庭をいちばん大切に思っていながら、つい浮気してしまったり。言ってはいけないとわかっていながら、怒りにまけてつい言ってしまったり。
恋愛、名誉、性欲、激情……、欲望や衝動にかられて、自分を破滅させるようなことを、人はしてしまいます。 まさに、民話の中のサソリや毒ヘビのようです。
それは基本的に「理性」よりも「本能」のほうが強いからです。遠い将来のことより、目先の満足にひきつけられてしまいやすいからです。
しかも、それは悪人に限りません。人間なら誰しも、そういう面を持っています。 悪人と善人にキレイに分けられるものではありません。悪人も状況次第では善人となるでしょうし、善人も状況次第では悪人となってしまう可能性を秘めています。
「悪いことをするのは悪人だけ」と思っていれば、かえって足元をすくわれてしまうでしょう。 また原発を例にとるなら、「今度は不正のないように」「今度は間違いを犯さないように」と、厳しく取り締まることはもちろん大切ですが、人間というのはその本質として不正や間違いを犯すもの。
それを完全に排除することは、人間を人間でなくすことです。ですから、本当に完全な安全対策があるとしたら、それは「多少の不正や間違いがあっても、それでも大丈夫なくらい余裕のあるシステム」を作ることしかありません。
世の中全体がそうであるように。 日常の人間関係でも同じことです。「あの人は善人だから」と信用しすぎることは、かえって「裏切られた」というようなマイナス感情のもとになりかねません。
また、「あの人は悪人だから」という決めつけは、その人の善の部分が表に出る機会を失わせてしまいます。
性善説と性悪説がありますが、「善なところもあり、悪なところもある」のが人間です。
あなたも、そして、他の人も。

そのことを踏まえて、自分を見つめ、人とつきあっていくことが大切です。 今回ご紹介したバージョンでは、最後にカメが怒っていません。
これを最初に読んだとき、感動しました。「これだ!」と膝を打つ思いでした。
言葉としてはわずかな違いですが、内容的にはとても深みが増していると思います。

なぜカメは怒らないのか? それはサソリの気持ちも理解できるからです。
自分にとっても命とりなのに、ついやってしまう。
そういう愚かさを、カメだってもっているのです。それを悲しいと思うだけで、怒ることはできなかったわけです。
<賢者の答え>

アリ「カメの気持ちがわかる気がする……」
→この意見をもっともだと思ったあなたは……
ダメだとわかっているのにやってしまう……という人間的な弱さについて、あなたはよく自覚しているということでしょう。だから、人を責めることもできない。 弱さを自覚できている人は、逆にいざというときは、自制心を働かせることができるものです。試験前なのに遊んでしまうとか、ダイエット中なのに食べてしまうとか、そういう日常のことでは、弱い心に流されてしまうこともあるでしょう。でも、本当に大切なことでは、欲望や衝動に負けないよう踏みとどまれるはずです。 自分の弱さを知ることは、強さにつながりますし、他人へのやさしさにつながります。

カエル「カメの気持ちがさっぱりわからない! 自分だったらサソリは許せない!」
→この意見をもっともだと思ったあなたは……
刺しただけでも許せないのに、刺さないと堅く約束したのに刺した。しかもこっちは親切にしてあげたのに。これは何重にも腹が立って当然です。怒るあなたが 自然です。 しかし、人はどうしても、このサソリのような面も持っています。そう言うと、ひどく絶望的のようですが、そうではなく、人間はとても素敵な面も持っています。善悪の両面を持っているところが、人間の人間らしさです。
サソリのように悪い面を出してしまったときには、責めることも、もちろん必要です。でも、怒りの中に、いくらかの同情と、同じ人間としての悲しみを感じることも忘れないでいただけたらと思います。そのことが、あなた自身にとっても、人間関係で傷つかないことにつながります。

メダカ「そもそもサソリなんか乗せるからいけないんだ。カメも悪いんだよ」
→この意見をもっともだと思ったあなたは……
サソリはサソリなんだから、相手にしなければいい。
たとえば、浮気ばかりしている人とつきあって、浮気されたと嘆く人がいれば、「そういう人とつきあうからいけない」と言いたくなるのが当然です。 生きていく上では、つきあう相手を選ぶということも、たしかに必要です。
しかし、誰だっていくらかはサソリな面を持っているのです。サソリは完全に排除と思っていると、つきあう相手がいなくなってしまいます。
他人の善な面を見てあげるようにして、なおかつ悪の面からも目を背けない。人づきあいでは、そういう姿勢が必要になってきます。
弱さや悪を受け入れた上で、素晴らしい部分を引きだしてあげるように努力する。 そうすることが、自分の内のダークサイドを抑えて、ライトサイドを引き出すことにもつながります。

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