お札の人物。今回は一代前の五千円札新渡戸稲造を取り上げました。
因みに五千円札についてですが、
一回目1957年(昭和33年)10月1日 肖像画に選ばれた人物は聖徳太子。
二回目1984年(昭和59年)11月1日 新渡戸稲造。
三回目2004年(平成16年)11月1日 樋口一葉。2019年現在、現役。
四回目2020年(令和2年) 津田梅子 2020年以降の新キャラ。
という順番になっています。

聖徳太子は万券も五千円も凌駕していてすごい! だけど、さすがにホロスコープは無理(鑑定できるものならやってみたいですが)。そこで今回は皆さんもまだ見慣れている、先代の五千円札新渡戸稲造をピックアップ。
「武士道」の著作者であり、教育者であることは有名ですが、果たして生き方をしてきたのかは、そこまでポピュラーではない気がします。
どんな星周りなのか見てみましょう。まずは誕生と略歴です (ウィキ&新渡戸記念館hpを参照) 。

1862(文久2)年9月1日 陸奥国岩手郡盛岡城下(現在の盛岡市)に暮らす上級武士。奥御勘定奉行新渡戸十次郎と妻・せきの末子として稲之助(後の稲造)は生まれます。因みにこの年、岡倉天心、森鴎外が生まれています。
1867(慶応3年)年 父新渡戸十次郎死亡
1871(明治4)年 祖父死去。洋品屋を営んでいた叔父・太田時敏の養子となり上京、太田姓となる。
1875(明治8)年 東京英語学校入学。
1876(明治9)年 明治天皇御巡幸の際、新渡戸家の功績が称えられる。
1877(明治10)年 札幌農学校第二期生として入学。
1880(明治13)年 母せき死去。上京以来一度も会うことができなかった。
1881(明治14)年 札幌農学校卒業、開拓使御用掛となる。
1883(明治16)年 東京大学入学。
1884(明治17)年 アメリカ、ジョンズ・ホプキンス大学に留学。
1887(明治20)年 札幌農学校助教に任命され、ドイツ留学。
1889(明治22)年 長兄七郎の死によりその跡をつぎ新渡戸姓にもどる。
1891(明治24)年 メリー・エルキントン嬢と結婚、札幌農学校教授。
1892(明治25)年 第一子が生まれるが生後9日目に亡くなる。
1894(明治27)年 札幌に勤労青少年のための遠友夜学校設立。
1899(明治32)年 日本初の農学博士となる。
1900(明治33)年 アメリカで「Bushido-the soul of Japan」出版。
1901(明治34)年 台湾総督府技師となる(サトウキビ栽培の指導にあたる)。
1903(明治36)年 京都帝国大学法科大学教授兼任。
1906(明治39)年 第一高等学校長(現東大教養学部)東京帝国大学農科大学教授兼任。
1909(明治42)年 東京帝国大学法科大学教授兼任(農科大学教授退任)。
1911(明治44)年 初の日米交換教授としてアメリカで講義。
1917(大正6)年 東洋協会植民専門学校(現拓殖大学)2代学監となる。
1918(大正7)年 東京女子大学初代学長。
1920(大正9)年 国際連盟事務局次長就任。
1926(昭和元)年 貴族院議員就任。
1933(昭和8)年 8月カナダバンフでの太平洋会議に日本側理事長として出席。10月15日(日本時間の16日)ビクトリアで逝去(71歳)。

ホロスコープですが、出生時間がはっきりしていないので、月は仮説です。

第1室 本人の部屋    いて座 ☽4°23 ☊21°52
第2室 金銭所有の部屋  やぎ座 
第3室 幼年期の部屋   みずがめ座
第4室 家庭の部屋    うお座 ♆(♈3°6)
第5室 喜びの部屋    おひつじ座 ♂19°13
第6室 健康勤務の部屋  おうし座 ♇11°19
第7室 契約の部屋    ふたご座 ♅20°25
第8室 生と死の部屋   かに座
第9室 精神の部屋     しし座 ♀13°2 ☼(♍8°23)
第10室 社会の部屋    おとめ座 ☿19°52 ♄23°40 ♃(♎1°24)
第11室 友人希望の部屋  てんびん座
第12室 溶解障害の部屋  さそり座

火と土の星座に星が集中。水星座に星がありません。
知的で手堅く、一見大人しいですが、気性の激しい面アリ。
おとめ座の☼とおうし座の♇。♀も♇と絡みます。
プライドの高さと専門性の深さ。信仰への情熱などを物語ります。
10ハウスの♄は☿と合。♄と♃は、♆が対。

書く事、伝達する事。技術といった実務面に長け、大きく移動する人生であり、♆と対を海外での活動を意味づけている気がします。4室は家族の部屋であり、彼が6歳の時に父を失ったこと。叔父の家に養子に出ることを暗示していた面も読めますが、♄だけでなく♃と組むことで、マイナス作用だけでなく良さを引き出したのでしょう。
☊と♅の柱は、どちらも火と風で、対人関係に変化をもたらす効果あり。
感情の起伏の激しい面とこだわりの強さ、正義感が同居する新渡戸の性質に、風星座にある♃と♅が、潤滑油になったかもしれません。

手ごたえのある実益と独自の清廉さを重視する傾向の強いおとめ座は、過敏で特有の脆さも内在しています。平たく言えばまじめで心配性。稲造にもそれは垣間見られますが、武家の血筋も忘れてはいけない要素です。
新渡戸家は南部盛岡藩の上級武士。曾祖父伝蔵は儒学と兵法の大家。
祖父の傳(つとう)は勘定奉行を務めながら、藩領の北部にある三本木原(現在の十和田市付近)の開拓事業や運河工事に携わり、林業や農業発展に大きく貢献した人たちでした。稲造の父十次郎も後を継ぎ藩の財政や開拓事業を進め、母のせきは藩内の賢婦と称される才女。彼にはサラブレッド的文武両道の血が受け継がれているのです。

藩の財政のために東奔西走した父の十次郎は、できすぎることが裏目に出て蟄居閉門に処せられ、失意の末に稲之助6歳の時、48歳でその生涯を終えました。
幼い稲之助は、明るく面倒見の良い母や祖父に見守られ、藩校作人館(現在の盛岡市立仁王小学校)に通い文武と芸事に励む日々を過ごします。

新渡戸家おかかえの医師から英語を教えてもらうだけでなく、煙草の火をつける奇妙な装置(今でいうライター?)に触らせてもらい、エレキのビリッとした感覚に驚いたり、奥羽最北端の南部藩でありながら、西洋絡みの人と物に触れる機会が多く、西洋への憧れを抱きながら成長できる環境がありました。

やがて東京で洋服店を営む叔父(祖父の四男)の太田時敏の養子になり、上京していきますが、この経緯は4室家庭の部屋に♆があることで頷けます。

東京で学び、明治天皇の励ましで農学の道へ

養子となるので性が変わりますが、名も稲造と改めます。
稲之助という名前は、祖父と父が開拓した地域で初めて稲が実った年に彼が生まれたことから命名したので、稲の字を外さなかったそうです。
上京した当初は南部藩の「共慣義塾」に通いました。授業が退屈で身が入らない、叔父との関係もすんなりいかなくて、滑り出し順調とじゃいかったようですが、頑張りを発揮し東京英語学校(後の東京大学)に入学。

ここで生涯の友となる植物学者の宮部金吾。キリスト教思想家となる内村鑑三と出会ってゆきます。内村は「武士道」を書く際、大きな影響を与えた人物でもあります。
東京英語学校を卒業後、稲造は宮部・内村とともに、北海道へ渡り札幌農学校へ進学します。札幌農学校といえばクラーク博士。しかし博士は帰国した後の入学だったため、稲造たちは直接指導を受けてはいません。
農学への道を決意したのは理由がありました。

1876(明治9)年夏。日本各地を御巡幸していた若き明治天皇が、新渡戸家に立ちより、
三本木開拓の功績を褒め、稲造ら三兄弟にも
「今後とも、子孫は、父祖伝来の志を継ぎ、農業に尽くしなさい」
と声をかけたそうです。
稲造はこの言葉を胸に刻み、いただいた報奨金で聖書を買い、教材としたのでした。
明治時代の北海道は開拓が始まったばかり。
食文化にも変化が起きた日本にとって、西洋料理に必要となる乳製品や食肉を得るための酪農。そして西洋渡来の作物栽培が始まっていました。北海道開拓使こそ、薩摩藩の黒田清隆でしたが、北海道開拓の入植者の多くは、戊辰戦争で敗れた東北諸藩の人々だったのです。東北出身の稲造にとっては、そこに気楽さもあったと思います。

札幌農学校に入ると農耕ばかりではなく、一緒に入学した宮部・内村と学生生活を謳歌。すると同時に、クラーク博士直伝の一期生や、宣教師たちの影響も受けて、正義感が強い稲造は、英語の聖書を手に喧嘩腰になりながら熱い議論を交わしたそうです。
最愛の母せきの死に目に間に合わなかったことや、目を悪くしたことで鬱になった時期もありますが、トーマス・カーライル著『サーター・リサータス』に触れ、精神的に再生してゆきます。

トレードマークの眼鏡をかけたのもこのころで、「パウロ」という洗礼名も拝します。
幼いころから西洋に憧れていた新渡戸にとって札幌農学校時代は、精神力を鍛え視野を広げる場となり、農学士として卒業後は、開拓使御用掛として、蝗害(こうがい・バッタの大量発生による作物の被害)の対策に従事しました。

「太平洋の橋になりたい」

英文学を学び、東洋の長所と西洋の長所を発信し、双方の益になりたいという向学心から、開拓使御用掛を辞め、草創期の東京大学に入学をしますが、ここでは得られるものがないと失望。働きながら受験をした東大を退学し、稲造は一大決心で渡米。
ジョンズ=ホプキンス大学で約3年間留学します。学費の高さから慎ましい暮らしを余儀なくされながらも、勉学的に人脈的に実り多い時期だったようです(第28代アメリカ合衆国大統領となるウッドロウ・ウィルソンも、学友の一人で、のちに大きな障壁になりますが)。

そして、この地で稲造は、プロテスタント系「クエーカー」ボルティモア会とも接点を持ちます。洗礼を受けたものの、入信先に迷っていた稲造は、ここなら東洋と西洋の価値観癒合を成せると入会。生涯の伴侶メアリー=エルキントンとも出会います。
クエーカー信徒の家庭で育ったメアリーは、稲造の講演を聞くことから、日本に興味を持ち、直接話がしたくて彼を訪ねてきたそうです。

在学中、札幌農学校助教授に任命された稲造は、ジョンズ・ホプキンス大学を中途退学し、今度は官費でドイツへ留学。ボン大学で学ぶことになります。
その間に、実家の長男の七郎が死去。次男は既に亡くなっているため、稲造は新渡戸へ復籍の手続きをしています。(以降本文は、稲造ではなく新渡戸と記します)
学業の他親族問題もありましたが、ずっとメアリーとの文通を続けていた新渡戸は、ついに結婚という結論に至ります。

まだ国際結婚が珍しい時代でもあり、東洋人で娘より三つ年下の男。メアリーの父は大反対しますが、クエーカー教徒仲間がメアリーの両親を説得したのも功を奏し、出会いから5年の歳月を経て、1891(明治24)年元旦。二人は結婚。
新渡戸は新妻メアリーと日本へ帰国し、母校である札幌農学校の教授となります。
主任教授、予科主任と出世しますが、農業から語学まで、様々な教科を担当し、それだけでなく、私立中学である北鳴学校の校長も兼任。

勤労学生が通う夜間学校「遠友夜学校」も設立。教育熱心なのと、頼まれたらばイやと言えない性格もありますが、この頃の日本は日清戦争の勝利で、国際社会の中で存在感を強めつつある時期でもあり、とかく勇ましい空気がありました。
それもあって信仰上の理由から、新渡戸はそこには立ち入らず、教育に心血を注ぐ日々でしたが、激務の末農神経症を患った末、授かった第一子が8日で夭折するという悲しみに見舞われます。

心身を休めるため夫婦でカリフォルニアに渡り、静養している間に執筆したのが「武士道」(英文)です。
ボン大学に留学中、ベルギー人の教授と
「宗教教育もないのに、日本人はどうやって善悪を区別する?」
「武士の教えであった「武士道」がある」
というやり取りをしたのがきっかけとなり、日清日露の大戦以降、武士という存在。生き方が消えてゆく危機感もあり、執筆に至ったということです。

新渡戸が書いた「武士道」は今も健在で、読み継がれています。
内容的に深いものはありますが、徳川時代以降の侍のあり方を中心にしていること。
執筆した新渡戸自身が幕末生まれで、物心つく頃には新時代になっているので、「葉隠れ」のような朴訥さはないこと。
クリスチャン視線であること。(内村鑑三の影響も濃い)等を意識して読む方がいいかもしれません。
極東の小国日本が帝国ロシアに勝った日露戦争もあったことから、西洋諸国にとって日本の精神性をしるハウツー本として、新渡戸の書いた「武士道」はかなり売れました。

同郷の後藤新平が台湾総督府の民政長官に就任したことがきっかけで、台湾総督府の技師に新渡戸は任命されます。
当時の台湾は植民地政策の中にあり、日本政府は国費を投じて台湾のライフラインをはじめ、病院。学校などの整備を進め、現地の人々の職と生産を上げるために農業支援も力を注ぎました。新渡戸は民政局殖産課長、殖産局長心得、臨時台湾糖務局長をこなし、当時の児玉源太郎総督に『糖業改良意見書』を提出。
サトウキビの栽培を計画し、台湾における糖業発展の基礎を築いてゆきます。
台湾糖業博物館(高雄市)には「台湾砂糖之父」として、新渡戸の胸像が置かれているそうです。

台湾での実績をもとに帰国後は植民政策を講じ、京都帝国大学より植民政策の論文で法学博士の学位を受けます。東京帝国大学法科大学教授との兼任で第一高校の校長となり、まだまだ東洋色の強い学校に西洋色を取り入れて、拓大・東京女子大などの創設経営などにも協力してゆく新渡戸。それだけに「西洋かぶれ」と、嫌悪する生徒や教授もいたようですが、東洋と西洋の架け橋になることを旨としていた方針を変えることはなく、海外での講演活動も行っています。

1920年(大正9年)。国際連盟設立に際して事務次長に選ばれます。このため東京帝国大学経済学部で植民政策を担当していたのを辞職。事務次長を務めたると、国際連盟の規約に人種的差別撤廃提案を入れて過半数の支持を集めますが、議長を務めたかつての学友アメリカのウィルソン大統領の意向により否決されてしまいます。

アメリカもイギリスも経済問題を抱え、満州帝国問題もあり、日本の立場は非常に厳しいものがありました。他国と日本。その両者の間に立つ新渡戸は、国内からも非難を受ける立場となってゆきます。事務次長を退職し、貴族院議員、太平洋問題調査会理事長となっても「東西のかけ橋になる」という彼のスタンスは変わらず、抗日運動が強まるアメリカで、満洲事変における日本の立場を弁護したため、激しいバッシングを受けたようです。
一時帰国したものの、太平洋会議出席のためカナダに赴き、ビクトリア市のジュビリー病院にて亡くなりました。享年72歳。

おとめ座に進行中の♆があることも誘引なのか、見識意欲は深く土属性の「関係性を大切にする」思いが根幹にあったのか、新渡戸稲造に落ち度はないのですが、彼が亡くなる頃は、純粋な憧れが幕を閉じ、騙し騙されの外交テクが必要な時代が始まった。その過渡期のような感じもあります。

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