幕末維新はいつからいつまでなのか。私見ですが黎明期と後期を入れるとするなら、1838年(天保9年)徳川斉昭「弘道館記」に「尊王攘夷」を示した辺り~1878年(明治11年)大久保利通暗殺までの約40年と思っています。
過渡期としては、1853年7月8日(嘉永6年6月3日)ペリー艦隊が浦賀に来航し通商を要求の後~1869年(明治2年)全国の大名(藩)が所有していた土地(版)と人民(籍)を
朝廷に返還した政治改革「版籍奉還」までの16年。
そして、武家社会が勤皇と佐幕に大きく分かれる幕を開けた人物が、井伊の赤鬼と呼ばれ安政の大獄を起こした大老井伊直弼。理想と情熱で異国への密留学や老中暗殺を計画した長州藩の若き学者吉田松陰。
今回は、この二人の星周りと歩みにスポットを当ますが、その前に黒船が来る以前のことを簡単にお話しします。

江戸時代の日本は鎖国をしていました。しかし清や李氏朝鮮。オランダと限られた国と長崎の出島で交易をしていたのです。また蝦夷地に上陸するロシアと役人のトラブルをはじめ、1825年(文政8年)に出た外国船打払令以降も、外国船の日本接近があったのでした。
1844年(天保15年)。オランダのウィレム2世国王から将軍あてに届いた親書には、近い将来欧州各国が日本に開国を求めてくること。その前に日本側からの開国をすることを勧める旨があり、時の老中水野忠邦は開国を主張しますが何も進展せず、2年後に孝明天皇が即位する時も「外交問題」は引き継がれたままだったのです。
孝明天皇は聡明な人ですが異人嫌い。多くの公家はそれに準じている状況でした。政治・経済の実務を幕府に任せたままざっと300年。朝廷は「京の都」の御所を視点にのみ国を見ていました。事情と実務力はどうしても疎かったのです。 
一方、独立戦争を経て合衆国を誕生させたアメリカは、経済も軍事も拡張するために、東アジアに積極的な強圧外交を行っていたのです。産業革命以降、より遠洋航海が盛んになる西洋諸国や、欧州に並んで植民地を求めるアメリカの状況を知る幕府は、「今の異国と戦争をしても戦力的に勝てない。開国にかじを切る方が無難」という見解を出し、目立たぬように英語を話せる人材を備えますが、国の最終決定権を持っている朝廷の了解を得なければなりません。
朝廷と幕府。この両者は認識のズレを修正することないまま、2回目のペリー来航を迎えてしまったのでした。


文武両道のスペシャリスト

徳川家康の家臣となった井伊直政を初代とする彦根藩井伊家。将軍の執務空間である江戸城内の「奥」に席を有す、親藩の会津松平家・高松松平家と並び徳川家の信任厚い譜代大名です。 
井伊直弼は1815年11月29日(文化12年10月29日)。近江国犬上郡の彦根城の二の丸(現在の滋賀県彦根市金亀町)で、第13代彦根藩主井伊直中の子として生まれます。  
幼名は鉄之助。母親は側室お富で十四男の鉄之助は、殿様になることも養子に出ることもなく、要職にも就けない境遇です。可愛がってくれた父直中の死後17歳~30歳までの15年間。部屋住みという立場で、彦根城内の邸宅にひっそりと暮らしました。



1ハウス 本人の部屋    うお座     冥王星(20°)
2ハウス 所有の部屋    おひつじ座   火星(18°)
3ハウス 幼年期の部屋   おうし座
4ハウス 氏族の部屋    ふたご座   node(24°)
5ハウス 嗜好の部屋    かに座 恋愛・レジャーと表記
6ハウス 健康働き方の部屋 かに座 
7ハウス 契約の部屋    しし座
8ハウス 授受の部屋    てんびん座  金星(22°)・木星(♏0°)月(♏13°)
9ハウス 精神の部屋    さそり座 水星(15°)・太陽(♐6°)・天王星(♐7°)
10ハウス 社会の部屋    いて座   海王星(19°)
11ハウス 友人希望の部屋  やぎ座
12ハウス 犠牲と救済の部屋 みずがめ座 土星(7°)

いて座の太陽&天王星コンビ。土の星座に星がないのも大きな特徴。出生時間は不明確ですが、月はさそり座の13°なので、月はさそり座であることは確定。精神の部屋で水星とタッグを組んでいるので、学問・芸術を深く極められるものを持っています。
自我と個性が強く、動き出したら止まらない気質と同時に強い制限を加えられたりと、身の上に大きな変化が起こるのも、納得できるものはあります。


領民の良き藩主、黒船到来の大老としてリリーフさせられる

自他ともに表に出ることはない身。そうわかっていても鉄之助は徳川家を守る井伊家の人間として、武芸を怠らず、和歌・鼓・お能にも通じ、茶人としての道も深めました。
「一期一会」という言葉が好きな方は多いと思いますが、これは井伊直弼の茶湯一会集から今日に伝わっているのです。他にも数々の名言を残し、長野主膳と師弟関係を結び、国学ぶ文武両道のデキル人でした。
第14代藩主で兄の直亮の世子井伊直元(直中の十一男でこれも兄にあたる)が死去したことから、1850年(嘉永3年)、32歳で15代彦根藩主として藩を納めることになったのです。部屋住みの長かった身から、江戸城内の奥に席を持つ井伊家の当主として、将軍がより身近になる変化に本人が一番驚いたとは思いますが、領民からは慕われる名君として彦根藩を納めた井伊直弼。
黒船来航するまでの数年は、とても充実した時期を過ごしたともいえます。

13代家定が将軍となった翌年にペリーの再来航を迎える幕府は、混乱するまま結んだ日米和親条約調印。その後に起きおる安政の大地震。コレラの流行などの案件が続き、様々な対策に大きな出動と出費を余儀なくされたのでした。
その中で「異人の船は打ち払えばいい」という熱烈な攘夷論で、同意する大名をまとめる水戸藩主徳川斉昭(徳川慶喜の父)。
お互いに似たような境遇から、それぞれ藩主となった直弼と斉昭は、これまでは良好な関係でしたが、長野守善から国学を学んだ井伊直弼は、天皇を中心とした日本国という理想を持っていました。朝廷と幕府が協力することで、大国と渡り合うことが日本を守れる。そう考える公武合体派の幕臣側として、斉昭の攘夷行動が過激すぎたこともあり、他の老中と共に幕政から彼を追放せざるを得なくなったのです。
孝明天皇も困らせる意図も討幕の意図もないのですが、当時の日本と西洋の国力差がこの時点でわからずにいたのです。日米修好通商条約の勅許を朝廷が拒否し続ける中、老中首座の阿部正弘が急死してしまったのもマイナス要因となりました。
アメリカが強く返事を求めてくる中、困った幕府と徳川家定は、井伊直弼に大老を就任させてゆきます。
14代将軍の後継者争いも始まり、武家社会全体が不穏な空気に包まれる中、孝明天皇の了解を得ないまま 日米修好通商条約調印がされました。
無勅許で即時調印を行ったのは老中松平忠固。しかし、総責任者は大老にあります。
孝明天皇が幕府の勅を突っぱね続けたことに、喝采を送っていた尊皇攘夷派の侍たちは、井伊直弼を非難し攘夷運動が過激になる中、徳川家茂が14代将軍に就任します。
一橋慶喜を擁立したい水戸藩と、共闘していた島津斉彬や松平春嶽は謹慎を言い渡されることから、安政の大獄は始まります。

子どもでいることができなかった神童

次は吉田松陰。出身は誰もが知っている長州藩ですね。はるか昔中国地方十一カ国&北九州の一部を納めた毛利氏。輝元の時代にはかなりの国力もありましたが、関ヶ原の戦いに敗れた西軍の責任を取る形で、周防国と長門国に領土が減ったのが長州藩。この二国合わせて現在の山口県の形です。
下関は朝鮮半島や九州や四国と本土を繋ぐ港であり、農業・輸送などの拠点でもあり、新田開拓にも余念がないので財政は豊かで、殿様はあまりうるさいことを言わないタイプ。「そうせい公」とあだ名がつくほど、おおらかな毛利敬親と財政があったゆえに幕末の長州藩は、若者が活躍できた土壌があったのです。
学問も盛んで寺子屋の数も全国レベルで、武家の子たちは文武両道を求められました。江戸中期の儒学者である荻生徂徠の高弟の一人山形周南が携わった藩校明倫館では、幕府の公認学問であった朱子学に異を唱える「徂徠学」が藩内に浸透し、吉田松陰を指導した叔父玉木文之進も影響は受けています。

1830年9月20日(文政13年8月4日)長州萩城下松本村(現:山口県萩市)で長州藩士・杉百合之助の次男として松陰は生まれます。幼名は寅之助。松陰は号です。
大河ドラマ「花燃ゆ」の主人公となった文は実の妹で、久坂玄瑞に嫁いだことでも知られています。
明倫館の山鹿流兵学師範吉田大助(叔父)が急死したため、6歳で吉田家の家督を継ぐことになった寅之助は、もう一人の叔父の玉木文之進から、立派な兵学者に育てるためスパルタ教育を施こされます。そのかいあって寅之助は、9歳にして藩校明倫館に通うのではなく、兵学師範に就任したのでした。
藩主毛利敬親を前に11歳で「武教全書」の講義をプレゼン。その才能が認められ13歳にして長州軍を率い西洋艦隊撃滅演習を実施。15歳で山田亦介より長沼流兵学の講義を受け、山鹿流、長沼流の江戸時代の兵学の双璧を収めたのが、吉田松陰の幼少期の経歴です。
神童ということばを、そのまま擬人化したら、こうなるのではと思うほどの秀才ぶりですが、それゆえに「普通の子ども」としての経験がないまま、青年期を迎えているのです。


 
第1ハウス 本人の部屋   いて座 木星(♑8°)
第2ハウス 金銭所有の部屋 やぎ座 海王星(20°)天王星(♒6°)
第3ハウス 幼年期の部屋 みずがめ座 
第4ハウス 家族の部屋   うお座  火星(26°)冥王星(♈8°)
第5ハウス 嗜好の部屋  おひつじ座
第6ハウス 健康勤務の部屋 おうし座
第7ハウス 契約の部屋  ふたご座
第8ハウス 生と死の部屋  かに座
第9ハウス 精神の部屋   しし座 土星(26°)金星(♍3°)node(♍10°)
第10ハウス 社会の部屋  おとめ座 太陽(26°)水星(♎22°)
第11ハウス 友人希望の部屋 てんびん座 月
第12ハウス 障害の部屋

乙女座の太陽と魚の火星が向かい合う柔軟宮の柱と、土星座のトリンを持ちます。平素は温厚で折り目正しく記憶力の良さは抜群。これだと決めるとモードが切り替わるように、周りも見ず突っ走る生き方は、月が天秤座の水星と合もしくは、おひつじ座にある冥王星と柱を構成していたら。いやいや、深みのあるさそり座だったらなぁと、ついつい思ってしまいます。
アヘン戦争で大国の清がイギリスに負けた事を知った少年寅之助は、山鹿流に限界を感じていました。19歳で念願の長崎へ遊学し、外国との玄関口である平戸を見て、カルチャーショックを覚えます。
幕末物のドラマなどでは、あまりにも危機感のない幕府に、心ある若者たちが危機感を抱き、国を変えていかなければいけないという展開になると思いますが、この頃の徳川幕府は「日本の武力で外国に勝てる時代はもう過ぎている。開国して政治的に対応するのが生き延びる道」と、答えを出していました。ジョン万次郎の登用はまさにそれで、水面下では英語ができる人材も手配したのです。 
港を持つ島津藩をはじめ交易に敏感な藩の藩主たちもそれはわかっていて、蒸気船の開発等にも取り組んでもいました。しかし、多くの人は、幕府や各藩の殿様たちの事情を知りません。ましてその先の海外の状況など、知る由もなかったのです。
学問にたけている寅之助もその辺りは同じで、知らないがゆえに「幕府は何もしない」という不信と不満から来る苛立ちが募り、彼をはじめ多くの武士が無謀な攘夷運動に走ったというのが、当時の実情ではないかと考えられます。


まじめすぎるゆえのルール違反・破天荒を意味する二十一回猛士

初めて西洋の兵学にも触れた寅之助は、長崎から江戸に出て佐久間象山、安積艮斎に師事。山鹿素水にも教えを請いました。やがて時折ロシア船が来て幕府を悩ませていることを知ると、交友している肥後藩の宮部鼎蔵(池田屋事変の犠牲者)を東北旅行に誘いますが、寅之助はここで人生初の問題行動を起こしてしまいます。
この時代の日本は、国内すべて藩(=国)でした。どこの藩に行くにしても「過書」という現在のパスポートみたいなものを取得してから行かないと、脱藩扱いになるのが武家社会の決まりでした。
発券されるには日数も必要で、過書の発券日が寅之助たちの出立日に間に合わなかったのです。普通なら出発日を延期するなど、考えるところですが、ここで寅之助は友人にそれを相談することも、予定を変更することもなく、出発してしまったのです。
つまり脱藩。もちろん彼はそれを知らなかった訳でもありません。しかし全く気にせず、東北から北関東を巡り歩き、一年ぶりに江戸に戻った寅之助を待っていたのは、脱藩の罪による長州藩への帰国命令でした。
薩摩藩の島津久光や土佐藩の山内容堂。はたまた会津の松平容保公のような家臣との間にシビアな線引きをしない毛利敬親公は、特大の温情を寅之助にかけ、父杉百合之助の育み(自宅謹慎)という処分を与え、その上10年間の諸国遊学を許可します。
そして、2回目の江戸幽学(諸国遊学)に出発した寅之助は、黒船来航に遭遇するのです。
以降、井伊直弼と吉田松陰(寅之助と表記)の略歴です。大きな事象も加えています。

1850年(嘉永3年)
直弼、家督を継いで15代彦根藩主となる。32歳。
寅之助、九州遊学に出発。長崎・平戸等。19~20歳。
1851年(嘉永4年)
寅之助、藩主に従い江戸へ赴く。佐久間象山に入門する。東北遊歴に関所手形を持たずに出発。
1852年(嘉永5年)
直弼、丹波亀山藩主松平信豪の次女・昌子(貞鏡院)と婚姻。長野主膳を藩士として登用。
寅之助、脱藩の罪により士籍を削除され父杉百合之助の育みとなる。
1853年(嘉永6年)
寅之助、敬親公の温情で諸国遊歴に出発。近畿遊歴後、ペリー艦隊が浦賀に来航したのを目撃し、「将乃私語」「急務状議」(武力行使で外国船を打ち払え)という幕府批判の意見書を藩に提出。江戸藩邸の出入り禁止となる。
蒸気船を見て列強の脅威に衝撃を受けた寅之助は「西洋に対抗するには自ら外国を見聞し、西洋の進んだ技術を学ぶしかない」と考えるようなり、佐久間象山の勧めで、ロシア船に乗り込み密航するため長崎へ向かうが、一足遅く密航はできずに終わる。     1854年2月13日(安政元年1月16日)
ペリー9隻の軍艦を率いて浦賀に来航。寅之助 同藩の下級武士金子重之助とともに、下田で米艦乗り込みに密航を画策するも失敗、そのまま幕府に自首。海外渡航の罪を自首し下田の牢屋→江戸の伝馬町牢獄→金子重輔とともに萩へ送還される。金子は岩倉獄。寅之助は野山獄へ投獄。
3月31日(3月3日)
日米和親条約調印。
1855年11月11日(安政2年10月2日)
安政の大地震。江戸で町方死者4,700人余。復旧事業費用が必要になり幕府の財政悪化の一因となる。海防参与だった藤田東湖も震死することで人材的痛手も大きい。
寅之助、野山獄で囚人を相手に勉強会を開く。後に松下村塾の教授となる富永有隣と出会う。人生で二十一回の猛挙。ルール違反・破天荒を意味する。「二十一回猛子」の号を使い始めたのがこの頃らしい。金子重輔が劣悪な環境の岩倉獄で病死(享年25)。野山獄で「孟子」の講義を始める。萩に来た勤皇僧・黙霖と文通を行う。野山獄から出獄の許しが下され、杉家の1室で謹慎。
1856年(安政3年)
寅之助、叔父から受け継いだ松下村塾で「孟子」の講義を始める・(ここから吉田松陰の松下村塾が始まります。寅之助ではなく松陰と記します)
学習意欲があれば身分の区別なく学ぶことができる松下村塾に吉田稔麿、増野徳民、松浦松洞が塾生となる。
1857年(安政4年)
富永有隣と高杉晋作が入塾。妹・文が久坂玄瑞と結婚。
1858年(安政5年)
塾生の手で松下村塾の増築工事を行う。
5月3日(安政5年3月20日)
孝明天皇、上洛した老中堀田正睦が差し出す。日米修好通商条約の勅許を拒否。尊王攘夷派がこの朝廷側の突っぱねに喝采を送る中、6月4日(4月23日)、井伊直弼大老に就任。
6月11日(5月1日)
新将軍に徳川慶福内定の通達を出す。
7月29日(6月19日)
日米修好通商条約調印。無勅許で即時調印を行ったのは、直弼ではなく老中松平忠固。堀田正睦と松平忠固は責任を取る形で老中を罷免される。
8月13日(7月5日)
一橋派の徳川斉昭と慶喜をはじめ、島津斉彬・松平慶永(春嶽)を隠居謹慎などに処し、安政の大獄が始まる。
8月14日(7月6日)
十三代将軍徳川家定死去。
8月24日(7月16日)
井伊大老へ抗議のための挙兵上洛をしようとした島津斉彬急死。
9月13日(8月8日)
孝明天皇から幕府を通さず水戸藩に日米修好通商条約を結んだ説明。各藩がそれぞれ独自に公武合体をし、攘夷を進める等の内容を記した勅書を送る(戊午の密勅)。幕府体制の根幹を揺るがす話を知った井伊直弼は激怒。安政の大獄を激化させます。
11月30日(10月25日)
徳川家茂、十四代将軍に就任。井伊直弼の力もありますが、斉昭と慶喜親子が、大奥から総スカン食らっていたのも選ばれなかった大きな原因です。
一橋慶喜こそ将軍にふさわしい。
そう信じて憂う松陰の耳に入ったのが、水戸藩・尾張藩・越前藩・薩摩藩の有志による、井伊直弼暗殺計画でした。
その話に触発された松陰は、京都に派遣されている老中・間部詮勝を待ち伏せて討つ計画を立てはじめ、塾生たちにそれを実行させるべく説得し始めます。
あまりの話に困惑する塾生も出て、止めに入る弟子や親交厚い桂小五郎の説得にも応じない状態でした。ついに藩から謹慎を命じられ、松下村塾は閉鎖。松陰は再び野山獄へ再入獄となり、そこでフレイヘイド(自由)を掲げて名もなき一青年だったナポレオンが、イタリアを解放した話を読み、自分もこうありたいと感動しながら、新たな策を思いつきます。
参勤交代で江戸に向かう藩主の籠を京都の伏見で待ち伏せし、公家である大原重明を擁して京都に乗り込み、勅を入手後に討幕行動を起こす.という計画で「伏見要籠策」と名付けています。

1859年(安政6年)
安政の大獄の本命は水戸藩に討幕を焚きつけた橋本佐内でした。吉田松陰も呼ばれて長州藩江戸屋敷に身柄を移されますが、当初の嫌疑は幕府絵の中傷文と、京都で不穏分子と接触があったという二点で、死罪にはならずに済む範囲です。
長州藩も松陰自身も深く考えず、取り調べを進めますが、なんでも隠さずに語る彼は自己の正義として、「老中・間部詮勝の暗殺計画」「伏見要籠策」の二点を話すことから、さすがに老中テロ計画を見過ごすことができない長州藩は、彼を小伝馬町に送ります。
11月1日(10月7日)橋本左内処刑。
11月5日(10月11日)ハリス、将軍家茂に謁見。
11月21日(10月27日)吉田松陰死刑。
老中暗殺首謀者という事で斬首享年30歳。安政の大獄終焉を迎えます。弟子たちに残した「留魂禄」には世辞の句が書かれてあり、
「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」
この句に呼ばれるごとく、久坂玄瑞、高杉晋作 伊藤博文をはじめ吉田松陰の門下生や多くの志士たちが、開国にむけて時代を切り開いてゆくことになります。        1860年2月13日(安政7年1月22日)
日米修好通商条約批准書交換のため遣米使節が米艦ポーハタン号で出発。護衛名目で咸臨丸も渡米。
3月24日(3月3日)
桜田門外の変。井伊直弼は水戸藩脱藩17名、薩摩藩脱藩1名の浪人たちにより暗殺されます。
4月8日(3月18日)
震災と江戸城火災。桜田門外の変などの災異のため万延に改元。大老井伊直弼死亡は、この後、公表される。

穏やかな時代なら剛腕をふるうことなく、良き藩主として生きることもできた人であり、サポートになる人材さえいれば、一人ですべてを背負わないで済んだかもしれない井伊直弼。
いて座の太陽を持つ目的遂行型の彼が描いた公武合体政策は、彼の死後に島津久光・松平容保・山内容堂といった重臣たち。久邇宮朝彦親王をはじめ、孝明天皇にも受け入れられていきます。
幼い頃からストイックな環境で兵学をはじめ学問を究めた結果、女っ気もなく、配慮してくれた藩主毛利敬親や周りの心配を他所に、二十一回猛子で自分の正義を具体化しようとした吉田松陰。乙女座の太陽を持つ彼は、伊藤博文や山形有朋といった明治政府を支える重鎮たちの心の支えでもありますが、松下村塾の麒麟児である久坂玄瑞と高杉晋作すら、その言動を止めることができないほど、鮮烈な思い込みと行動力のある人物です。
どちらも素晴らしく深い学があり、敬愛すべき先駆者ですが、小説やドラマでは井伊直弼はダークヒーローに描かれることが多く、松陰が憂国の志士だったり神格化的に描かれますが、実はかなり脚色されているのが見えてきます。

そして、両者の間に個人的な絡みはほぼないですが、東京都世田谷区にある松陰神社と、井伊家の菩提寺である豪徳寺。どちらも場所が近くて歩ける距離に建っているのも妙というものです。まだ行ったことのない方は、世田谷線散策を兼ねて訪れても良いかと思います。

井伊直弼と吉田松陰。リアリティを含んだ新感覚のドラマが出てきてくれることを願います。

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