龍が天を飛ぶ夢を見た翌日に生まれた子だから、龍馬と名付けられたという坂本龍馬。小説は「龍馬がゆく」、漫画は「おーい!龍馬」。近年では大河ドラマの「龍馬伝」でしょうか。彼を主人公にした作品も多く、幅広い年代のファンを持つ龍馬なので、何をした人かを語る必要はないのですが、行動半径も広く活動的で多く人との関わり、手紙を書くのが趣味?そう思えるほど手紙も多く、エピソードにもことを欠きません。

暗殺にしても暗殺者が誰か不明瞭。そして以前、「星から見た龍馬の講座」を行った時は、通説の1836年1月3日(天保6年11月15日)を使ってホロスコープを作りましたが、今回この原稿を書くにあたって、誕生日にも所説あることがわかりました。
通説が通るだけの根拠としては、龍馬の妻、お龍さんの話。そして旧暦で誕生日と命日が一緒というのがロマンスだったり、彼の故郷である高知県では、この日に合わせてお祭りもしています。今更そこに否定論を持ち出す気にはありません。

ただ思い立ったら即行動。行動しながら筋が理解できれば方向性をさらりと変える龍馬の自在性(これがあるから徳川家が断絶する難を逃れた気もします)が、私の中でやぎ座とかみ合わずにはいたのです。今回は通説だけでなく諸説の中の一つ。計二つ龍馬のホロスコープを作成しました。

どれが本当の彼により近いか、何故誕生日がいくつかあるのかについても私見を書きましたが、ガチガチの歴史読解でもなければ、ホロスコープ解析読本ではないのが連載の趣旨です。占星術のできる方はホロスコープと彼の略歴と照らし合わせて推理してもいいし、占星術にさほど興味のない方が、彼の経歴から見て星座イメージの検証をしてもいいと思ってまとめました。
そして、その前に、彼が生まれ育った土佐藩&藩主山内容堂についてと、龍馬に限らずあの時代の武士たちが意を決して行った「脱藩」について先に触れます。

●まずは土佐藩&山内容堂

関ヶ原の戦いで改易。徳川氏に味方した遠江掛川城主・山内一豊が、土佐国20万2600石を与えられて以降、土佐藩は明治初頭まで山内氏が治めました。海に面している土佐藩は海洋事業が盛んで、浦戸湾の仁井田村・種崎浦の地域に藩の造船所を設営します。
武家は大きく上士と下士に分かれていて、改易前の長曾我部に仕えていた半農半兵の「一領具足」を懐柔するため郷士という位が設けられました。郷士は下士の位ですが、商家や農家でもお金で買える身分でした。山内家と土佐の経済を支えた豪商才谷屋も郷士で、その分家である龍馬の実家、坂本家も裕福な郷士だったのです。

龍馬の母は彼が10歳の頃他界しますが、後妻に入った継母伊与の実家「下田屋」(彼女の前夫の実家説もあり)は、土佐藩御船倉の御用廻船商人でした。
少年龍馬は三番目の姉の乙女と一緒に、種崎浦の下田屋に船でよく遊びに行ったようです。世界地図や数々の輸入品がある下田屋で、異国文化の一部を見たり触れたり、長崎や下関の土産話を聞かせてもらった逸話があり、彼の思考や人格形成に一役買っていたともいわれています。また20代から彼がこの世を去るまで13年間、彼の自由な歩みを支えたのが、姉たちの理解と実家の財力です。

時の藩主15代豊信(容堂)は、宇和島藩主・伊達宗城、薩摩藩主・島津斉彬、福井藩主・松平春嶽と交流を持ち、幕末の四賢侯と称された人物の一人です。
1827年11月27日(文政10年10月9日)側室の子供でしたので土佐城下生まれ。
(基本正妻の子供は江戸の上屋敷生まれが多いです)当時は世継ぎになると誰も思っていなかったのですが、13,14代と藩主の急死が続き、14代豊惇の実弟は3歳(後の16代藩主・山内豊範)と幼すぎるため、側室の子であった豊信に藩主候補の話が浮上。
 豊熈の妻・智鏡院(候姫・島津斉彬の妹でぶるいの才女)が、老中首座の阿部正弘に働きかけたことから豊信は15代藩主になったのでした。

藩内では藩士・参政吉田東洋を起用し、西洋軍備採用・海防強化・財政改革・藩士の長崎遊学・身分制度改革・文武官設立など積極的な藩内改革を行いました。
低い身分の生まれと改革が保守派門閥や郷士の反感を買い、幕府に対しても14代将軍の継承問題で慶喜を押したことから、家茂を押した大老井伊直弼により、他の諸侯と共に謹慎を言い渡されてしまいます。

豊信から容堂に名前が変わったのはこの頃で、前藩主の弟・豊範に藩主の座を譲り隠居しますが、江戸謹慎中に土佐では反発する門閥と郷士の武市瑞山(半平太・龍馬とは親戚)を中心に組織された土佐勤王党が手を組み、吉田東洋が暗殺されてしまいます。
桜田門外の変に影響を受けて仕掛けたクーデターですが、すでにこの時点で脱藩している龍馬は土佐藩と容堂から暗殺者として疑われます。

薩摩藩と会津藩による長州藩追い落としのクーデター(1863年9月30日(8月18日の変))以降、佐幕派の息が吹き返し、謹慎が解かれた容堂は土佐藩に帰ると、土佐勤王党の党員と瑞山を捕らえ粛清してゆきます。龍馬と親しかった同士も何人もここで命を落としています。
自身を藩主にまで押し上げてくれた徳川幕府に恩を感じる容堂は、公武合体で擁護し続ける姿勢ですが、若い武士たちが倒幕へと傾く流れを止めることは難しい状況でした。
吉田東洋が目をかけ、容堂が最も信頼する武官後藤象二郎は、後に龍馬と縁を持つことから「船中八策」を容堂に進言してゆきます。

これが土佐藩主山内豊範から老中・板倉勝静らを通して15代将軍・徳川慶喜に建白されて、1867年11月9日(慶応3年10月14日)。慶喜は朝廷に政権を返還する大政奉還がなされたので、土佐のお殿様二人は重要なポジションなのですが、龍馬と直接話すことはなく、龍馬もまた彼らを強く慕う感じはないようです。

●脱藩って何?

これは藩士を辞めたのではなく、手続きを踏まず勝手に領地を出て他の藩に行って勝手なことをする行動ことをいいます。廃藩置県が行われるまでは、各藩が一つの国のようなもので、関所があったのはそれが理由です。他藩に行く場合は、それなりの手続きが必要だったのです。今風にいえば、サラリーマンがパスポートやビザなし。あるいは申請を待たずに海外に行って仕事をしてしまう感じにとらえてもいいかもしれません。それはそれでかなり問題ですよね。江戸時代の脱藩もお叱りは当然受けます。

場合によっては切腹物。自分だけでなく家族の立場などにもかなり影響する事なので、武家生まれ武家育ちの人にとって「脱藩」は、それ相当の覚悟と決意問題なのです。
龍馬は細かいことを気にしない傾向がありますが、「脱藩」もその一つで、これに関して悩みはしても、深刻さや悲壮感がなく選んでゆきます。
以上を踏まえて龍馬の経歴&大きな事象(これでもかなり端折っています)そのあとに誕生日とホロスコープを列挙します。

1835年(天保6年)
高知城下本丁筋1丁目に、郷士・坂本八平の次男として生まれる。
1846年(弘化3年)
母・幸死去。楠山塾に入門するが、他の塾生とのトラブルにより退塾となる。
1848年(嘉永元)14歳
日根野弁治道場に入門、小栗流剣術の修行を始める。
1853年(嘉永6年)19歳
4月中旬(旧暦)、剣術修行のため江戸の北辰一刀流・千葉定吉道場に入門。ペリー艦隊が黒船4隻を率いて浦賀沖に来航。龍馬も品川海岸の警備にあたる。兵学者・佐久間象山(師走の頃とされている)に入門、西洋砲術を学ぶ。
1854年(安政元年)20歳
「日米和親条約」締結。
土佐に帰郷。その後「小栗流和兵法十二箇条・二十五個条」を受ける。日根野道場の師範代を務めつつ、画家・川田小龍より「西洋の事情」について学び、徳弘孝蔵の元で砲術とオランダ語を学んでいる。 
1855年(安政2年)21歳
父・八平他界。坂本家の家督は兄・権平が継承。
1856年(安政3年)22歳
剣術修行のため江戸入り。後に土佐勤王党を結成する武市半平太(親戚)とともに土佐藩邸中屋敷(築地)に寄宿しながら小千葉道場に通う。
1857年(安政4年)23歳 
窃盗の罪で切腹になりかけた仲間・山本琢磨(従兄弟)を、武市と江戸から逃がす。山本琢磨は後に日本ハリストス正教会の最初の日本人司祭になり、幼い頃の大山捨松の里親になる。
1858年(安政5年)24歳
「北辰一刀流長刀兵法目録」を習得し江戸での2度目の剣術修行終え、帰国。「安政の大獄」起こる。
1860年(万延元年)26歳
「桜田門外の変」で井伊直弼暗殺される。
1861年(文久元年)27歳
武市瑞山らが「土佐勤王党」を結成。後に龍馬も加盟。剣術修と称して年末に武市の密書を持ち、長州へ向かう。
1862年(文久2年)28歳
宇和島藩を経由して長州藩入り玄瑞と面会し、「草莽崛起、糾合義挙」を促す。武市宛の書簡を託され土佐に帰還。龍馬、沢村惣之丞と共に脱藩。再び下関に向かう。
土佐藩内で藤田東洋暗殺される(龍馬、疑われるが脱藩後の事件である)。寺田屋事件起こる。江戸に下り桶町千葉道場に寄宿。
千葉道場の紹介で幕府政治総裁職の前福井藩主松平春嶽に会う。松平春嶽の紹介状を持って師走に勝海舟を訪ねた龍馬は、間崎哲馬・近藤長次郎とともに門人となる。
1863年(文久3年)29歳
勝海舟の求めで、龍馬らの脱藩罪赦免となる。「海神戸海軍操練所」設立の許可と海舟の私塾(神戸海軍塾)開設が認められ、幕府から年三千両の経費の支給を取り付けたが、龍馬は福井藩に出向し松平春嶽から千両を借入れさらなる資金調達をする。
土佐藩、勤王党弾圧を開始。武市瑞山をはじめ龍馬の里仲間が投獄、粛清される。薩摩藩と会津藩が手を組み、倒幕勢力最有力だった長州藩の京都勢力を一網打尽にすべく「八月十八日の政変」起こる。龍馬、神戸で勝の海軍塾・塾頭になる。
1864年(元治元年)30歳
土佐藩に出した帰国延長が拒否され再び脱藩。勝海舟との関係で各地を奔走し名士と会う機会が増える。お龍と出会い、後に懇意にしていた寺田屋の女将・お登勢にお龍を預けている。勝海舟が正規の軍艦奉行に昇進し、神戸海軍操練所が発足。京都にて池田屋事件発生が起こり、その後禁門の変が起きる。英米仏蘭四カ国艦隊による下関砲撃を受けた後、幕府による第一次長州征伐が起こる。龍馬とお龍内祝言をあげる。京都の薩摩藩邸で西郷隆盛と会見。
池田屋事件と禁門の変。いずれにも神戸海軍操練所の塾生が加わっていた事と、老中・阿部正外の不興を買った事等から、勝海舟が軍艦奉行を免職となる。江戸へ帰還する前に海舟は、薩摩藩城代家老・小松帯刀に龍馬と塾生の身柄を託し、庇護を依頼する。航海術の専門知識を重視する薩摩藩は彼らを受け入れる。
1865年(慶応元年)31歳
神戸海軍操練所が閉鎖となる。西郷隆盛に伴われ、薩摩に初めて入国した龍馬は、薩摩藩庇護のもと長崎に「亀山社中」を結成。大村藩の志士・渡辺昇と会談し薩長同盟を説くことから下関で桂小五郎と会談。
中岡慎太郎と共に京都薩摩藩邸で西郷と会談。海外に対して長州との武器弾薬類は全面的に禁止となっているため、近代的兵器の導入が難しくなっていた長州藩。薩摩藩は兵糧米の調達に苦慮していたことに目を付けた龍馬は、長州から薩摩へ不足していた米を送り、薩摩藩名義で調達した武器を密かに長州に転売する策を双方に提案。様々な業務と貨物の搬送はすべて亀山社中が担当するという三者が利する策に反対しる理由はなく受け入れられる。
1866年(慶応2年)32歳
小松帯刀の京都屋敷において、桂と西郷の会談が開かれるが難航。桂小五郎の求めで薩長同盟の保証人になる。伏見の寺田屋で幕吏に襲われ負傷。高杉晋作からもらったピストルを使う。薩摩藩船で大坂から鹿児島へ。お龍との新婚旅行となる。
幕長戦での下関海戦に参戦し、長州軍を応援、高杉晋作と会談。時勢の変化から軍備強化を急ぐ土佐藩は、ここで航海と通商の専門技術があり、薩長とも関係の深い龍馬に注目し接触を図りだす。
1867年(慶応3年)33歳
土佐藩参与後藤象二郎と会談し、龍馬は脱藩罪を許されて亀山社中を改編する。土佐藩庇護のもと「土佐海援隊」となり、龍馬は隊長となる。
第二次長州征伐。小倉藩への渡海作戦で龍馬は蒸気船ユニオン号を指揮。最初で最後の実戦を経験となる。長州藩は西洋の新式兵器を装備し、幕府軍は指揮も武器も旧式であることから戦力差が著しく幕府方の敗戦が続き14代将軍家茂の死去をもって立ち消えとなる。勝海舟が長州藩と談判を行い幕府軍は撤兵。
将軍後見職・一橋慶喜の第15代将軍就任が衆望される中、龍馬は長崎に来ていた越前藩士・下山尚に「政権奉還策」を松平春嶽に伝えるよう依頼。政権奉還論は既に幕臣・大久保一翁が論じていたのと、春嶽当人が慶喜に提案して拒否されている。
京都で将軍・徳川慶喜および島津久光・伊達宗城・松平春嶽・山内容堂による四侯会議が開かれるのに合わせ、後藤象二郎と土佐藩船で長崎を出航し、大政奉還を含む「船中八策」を起草。後藤がこれを自身の案として容堂に進言。藩主山内豊範が徳川慶喜に大政奉還論を建白してゆく。
岩倉具視・三条実美による討幕命令が薩摩藩・長州藩の志士に下る。龍馬と中岡。西郷と小松の立会いで「薩土盟約」締結。脱藩以来、最初で最後となる帰郷で実家に帰る。
1867年11月9日徳川慶喜、「大政奉還」
「将軍家今日の御心中さこそと察し奉る。よくも断じ給へるものかな。余は誓って公の為に一命を捨てん」と龍馬が語ったとされる(渋沢栄一『徳川慶喜公伝』)。大政奉還の成立によって討幕の大義名分が失われる。西郷隆盛の計略で相楽総三ら尊攘派浪士を用い、江戸で辻斬り・強盗・放火・強姦など凶悪犯罪を繰り返し、幕府側から戦端を開かせようと挑発し続ける。「新政府綱領八策」を起草。京都・近江屋で中岡慎太郎と共に刺客に襲われ、凶刃に斃れる。「王政復古の大号令」が出される。
1868年(慶応4年~明治元)
新政府「新政府綱領八策」をもとに「五箇条の御誓文」を発布。江戸城無血開城。

と、幕末から明治の幕が上がるまで、龍馬の足跡の主だった部分を追いました。生まれ育った土佐中心から江戸に行き、長州に福井。神戸に熊本。そして長崎と、もちろん必要あっての動きですが、神戸海軍操練所の設立の資金繰りで動く姿、薩長連合の設立に奔走する姿、重火器の買い付けに動く様は武官というより商人です。
どんなに紹介状を書いてもらっても、書いた本人、訪問先で「好かれ」なければ、大きなことは動きませんし、まして互いにいがみ合う者同士の同盟。いくら利害あったとしても(個人でも難しいのに、藩同士です)を結ばせてしまうのは、龍馬にそれができる才があっても事です。天性のエージェントかもしれません。
主権を天皇家に戻すだけではなく、長州や薩摩の志士たちは徳川家の殲滅の意図もありました。岩倉具視に口説かれてその気になっていましたが、徳川慶喜が龍馬ティストの大政奉還を受け入れ、龍馬が徳川家そのものを殲滅させる意思はなく、土佐の志士たちはそれ以上突っ込むことができず、長州や薩摩の志士たちからは不満の種となったようです。
龍馬暗殺の裏には幕府側というより勤皇側の逆恨みがあったともいわれますが、自由闊達に動いた龍馬でもかなわぬ夢がありました。

それは蝦夷(北海道)開拓です。神戸海軍操練所時代、彼は京都に集まる勤皇浪人たちを幕艦「黒龍丸」に乗せて蝦夷地を目指す計画を立てました。しかし、仲間の二人が池田屋事件に関わってしまったことから計画を断念。
亀山社中創設後に薩摩藩家老小松帯刀の尽力で洋帆船「ワイルウェフ号」を購入し、蝦夷地行きを計画すますが、暴風雨によって五島塩屋崎で船は沈没。社中のメンバー12人も遭難死してしまう事故が発生。海援隊創設後、大洲藩から借りた「いろは丸」でも試みみますが、紀州藩船「明光丸」に衝突されて沈没。
 
最後は薩摩藩の保証で購入した洋型帆船「大極丸」で試みようとして、支払いの問題から運航不能なまま、龍馬は中岡慎太郎と共に京都・近江屋で暗殺されてしまいます。
何故それだけ蝦夷開拓かとなると、未開の地への憧れ。そしてロシアの南下を警戒しての港設立もあったと伺っています。

本人が行くことができなかった蝦夷。かつて窃盗の罪で切腹になりかけた山本琢磨(従兄弟)を、龍馬は武市半平太と共に逃がしますが、琢磨は後に函館で日本ハリストス正教会の最初の信者となります。幼い頃の大山捨松の里親になり、東京復活大聖堂(通称:ニコライ堂)は所縁の場。そして後々ですが坂本家は明治時代、北海道へ移住します。
彼が落命せずにロシア対策で北海道へ行っていたから、函館戦争も変わり明治以降のロシア外交にも違いが出たかもしれません。

誕生日説とホロスコープ。暦も記載しています。

(1)1835年12月4日(天保6年10月15日 赤口)説
『汗血千里駒』坂崎紫瀾:1883年(明治16年)
『坂本龍馬』弘松宣枝:1896年(明治29年)
『勤王烈士伝』萩原正太郎…1906年(明治39年)
太陽は射手座。月は12時期点だと牡牛の29度なので、午後から夜までに生まれていれば月星座は双子座。太陽も月も男性格。かなり活動的な人になります。

(2)1835年12月24日(天保6年11月5日 先負)説
太陽・火星がやぎ座で合。月・水瓶座天王星と合。

(3)1835年12月29日(天保6年11月10日 友引)説
『維新土佐勤王史』(瑞山会、坂崎紫瀾:大正元年)
書物はいずれも明治大正時代に発行された書物です(資料から列挙)。太陽山羊座に月がおうし座。どちらも女性格で安定志向が強いので、もっと実務的な生き方をしそう。

(4)1836年1月3日(天保6年11月15日 先勝)説
太陽山羊座に月かに座。旧暦でみると誕生日と暗殺日が重なっている。
明治32年発刊の「土陽新聞」に連載の『千里駒後日譚』にお龍(龍馬の妻)の談話があり、彼の誕生日について『11月15日で、丁度斬られた月日、1867年12月10日(慶応3年11月15日)と一緒だと聞ひて居るのですが書物には10月とあります。どちらが真だか分かりませぬ』と言っていることから、一般的には3番目が通っています。お龍のいう書物は、1に上げた『汗血千里駒』とのこと。

何故こんなに誕生日説が起きるかというと、彼の実家の坂本家も要因の一つ。今のように病院出産ではないし、母子手帳もありません。キリスト教のように、生まれてすぐ洗礼を受けるわけでもない。正確な出生日を記載する風習は、当時の日本になく、商家ならではの縁起の良い日にこだわったことから、「先勝」の日が定着しではないかと思う限りです(東洋でわりとありがち)。
少年時代には夜尿症があったとか、気弱で虐めに逆切れして抜刀騒ぎを起こし、漢学塾を退塾させられたという逸話もある龍馬ですが、5人兄弟の末子次男なので兄や姉たちからも可愛がられ、後10歳の頃に母親の幸を亡くした後、妻の伊与とも関係は悪くなかったようでした。

先に挙げた姉の乙女と一緒に船で浦戸湾を渡り、下田屋(川島家)をよく訪れた件がありますが、これは後妻と龍馬の関係が良かったからのことだと思います。
 三女の乙女はとても気丈で文武にたけた女性で、龍馬が日根野弁治の道場に入門するまでの間、武芸と学問を龍馬に教えていた人です。生前の龍馬はよく手紙を家族に書いていますが、乙女にあてた手紙をみると、とても仲の良い兄弟だということがわかります。

因みにお龍こと楢崎龍は、1841年7月23日(天保12年月6日)京都生まれ。父親が中川宮(久邇宮朝彦親王(くにのみや あさひこしんのう))の医師だったこともあり、家柄的に出生がはっきりしています。幼い頃は裕福に育ち、父親の死後、かなり苦労はしたようですが、気が強く奔放でマイペースな性格だったそうです。

お龍を一目見て気に入った龍馬は、彼女を定宿の寺田屋に預け(これで龍馬は命を助けられています)、薩摩藩へ赴く時も一緒で日本人初新婚旅行ともいわれていますが、短期間でもかなり彼女のことを大切にしたようです。
龍馬が落命した後、土佐の坂本家にも身を寄せたようですが、お龍自身がかなり個性的で奔放なため、坂本家の家族とそりが合わず家を出ています。

そして、彼女が細かいことを正確に覚えているかは微妙。ということで私的には自由で未知な冒険好きないて座気質の12月4日。でも日が悪いから1月3日(旧暦11月15日)という仮説を立てました。どちらもお龍のホロスコープを重ねています。

占いHappyWeb本格鑑定へ
https://mbhappy.com/paidFortuneList.php