2018年大河ドラマ「西郷どん」の主役であり、大久保利道、桂小五郎と並ぶ維新の三傑の一人西郷隆盛は、日本人の誰もが知る人物です。1854年(安政元年)薩摩藩11代目藩主。島津家28代目当主島津斉彬公の「御庭番」となって以降の履歴を大雑把に並べるだけで、
1858年(安政5年)大島潜居の頃
1861年(文久元年)寺田谷騒動前後
1862年(文久2年)徳之島・沖永良部島遠島
1864年(元治元年)禁門の変と第一次長州征伐
1865年(慶応元年)第二次長州征伐と薩長同盟
1867年(慶応3年)大政奉還と王政復古
1868年(慶応4年)戊辰戦争
1869年(明治2年)薩摩藩参政
1870年(明治3年)大政改革と廃藩置県
1871年(明治4年)留守政府(岩倉使節団訪欧)
1873年(明治6年)征韓論と下野。私学校
1877年(明治10年)西南戦争
どれだけドラマが書けるのよと、すごい事例ばかり。
勤皇と佐幕の別なく関わる人物たちも豪華絢爛で、彼の人柄に惹かれた人は多いのですが、なぜか生前の西郷の写真はありません。大柄であったというのは間違いなさそうですが、世に出ている彼の肖像画や上野公園の銅像は、彼を知る人々や慕う人が後に描いた作品群です。
そして、いろいろ逸話を見ていると……、豚肉と甘いもの大好き(江戸時代でも地域によってはお肉食べていました)。お酒は弱いけれどたばこは好き。入水自殺(未遂)と遠島経験もあり。結婚歴は三回ほどと京都では浮名もながしたこと(犬が大好き(これは有名。銅像見てもわかりますよね)。ナポレオンがヒーローという、どこかユニークさも見えてくる西郷どん。星周りから見る&故郷薩摩藩と、征韓論以降からどんな人か見てみたいと思います。

出生時間が不明なので12時設定で作成しました。1828年1月23日(文政10年12月7日)、薩摩藩鹿児島城下加治屋町に住む小勘定方小頭西郷吉兵衛隆盛の長男として、この世に生まれます。

第1ハウス  本人の部屋    おうし座
第2ハウス  金銭所有の部屋  ふたご座
第3ハウス  幼年期の部屋   かに座   土星
第4ハウス  家族の部屋    かに座
第5ハウス  喜びの部屋    しし座
第6ハウス  健康勤務の部屋  おとめ座
第7ハウス  契約の部屋    さそり座  node・木星・火星
第8ハウス  生と死の部屋   いて座
第9ハウス  精神の部屋    やぎ座   海王星・水星
第10ハウス 社会の部屋    やぎ座   天王星・太陽
第11ハウス 友人希望の部屋  みずがめ座 金星
第12ハウス 障害の部屋    うお座   冥王星・月

みずがめ座に入ったばかりの太陽は、天王星(どちらも10ハウス。カプスはやぎ座)と、
やぎ座の水星(9ハウス)とコンジャンクション(合)。
同じく9ハウスには、ファンタステック且つ海を意味する海王星があり、繊細で空想的な海王星と、学問と技術のリアリスト水星もコンジャンクション。
この妙な組み合わせと、対局のかに座(3ハウス)にある土星のオポジション(対)は、西郷の精神面と運勢の支柱になっているようです。
ASC・MC・月いずれも正確ではないですが、おひつじ座にある月(12ハウス)は、
やぎ座の水星と天王星、かに座の土星といずれもスクエアにあり、彼の交渉力の源のように見えるさそり座の木星と火星(7ハウス)は、土星とトライン。
金星(11ハウス)と月はセキスタイル。同じ12ハウスにある冥王星も、太陽とセキスタイルをもっていて、おひつじ座の月と冥王星は、西郷を見出した薩摩藩主島津斉彬が持つ木星&水星(どちらもおひつじ座)とコンジャンクションしてきます。
斉彬の木星(さそり座)を挟むように西郷の木星と火星もコンジャンクション。
島津斉彬は1809年4月28日(文化6年3月14日)。江戸薩摩藩邸(薩摩藩上屋敷現在の港区芝界隈)生まれ。オランダ語を話す曾祖父島津重豪の影響で、海外への意識を幼いころから養い、人の才能を見抜く目があったのも確かですが、斉彬のおうし座の太陽と西郷のMCがコンジャンクションというのが西郷の忠誠心を物語っているし、西郷が柔和になれなかった斉彬の弟、島津久光とは、西郷の木星火星と久光の金星。
そして、西郷の金星と久光の土星もコンジャンクション。西郷の土星に久光の金星。冥王星が重くのしかかっているので、関係がぐずつくとなかなか改善しづらい感じがあり、久光自身の柔軟性がなければ、もっと関係が拗れていたのではないか、という印象を受けます。
西郷の星周りのもう一つの特徴は、柔軟宮(ふたご座・おとめ座・いて座・うお座)に星がないということ。良くも悪くも確信的な動きは得意ですが、融通は利きません。才能を見込まれ多くの人に必要とされて動いた西郷の人生のアップダウンを、やぎ座とみずがめ座にまとまる星の一群と、対岸の蟹座の土星が物語っていそうです。

西郷の幼名は小吉。諱は元服時に隆永(たかなが)。通称は吉之介をはじめ、いくつか通り名がありますが、隆盛は彼の父親の名前でした。王政復古の章典で位階を授けられる際に、親友の吉井友実が、彼の名を父・吉兵衛隆盛で届けを出てしまったことから、これ以降は父の名である隆盛を名乗り、現代のみなさまが知る「西郷隆盛」の名が定着します。
彼が生まれた加治屋町は、下級武士が住む地域でしたが、盟友大久保利通(日露戦争を勝利に導く東郷平八郎・大山巌(西郷の従弟)。
12歳で薩英戦争に参戦し、大正時代に総理大臣となる山本権兵衛といった英傑たちの里でもあり、東郷平八郎は西郷の弟吉二郎に習字を習っています。薩摩藩とは地域的には現在の鹿児島県と宮崎県の一部と奄美諸島。外様大名ですが、1609年(慶長14年)の頃から琉球間接統治もあり、すべて合わせると約90万石という加賀藩(前田家)同様に大藩だったのです。
奄美のサトウキビを独占販売。琉球を通じての中国との交易をはじめ、農業よりも交易と特産品で外貨を稼ぐ国を統治していたのは島津家。鎌倉時代もさかのぼることができ、廃藩置県となるまで長く薩摩の地を納めたなかで「郷中教育」という実技型の独自の教育システムが培われました。
かなり雑に言うと先輩が後輩を指導する、超体育会系な人脈の強い気風です。8代目藩主島津重豪の対外重視の政策と、三女の茂姫を第11代将軍・徳川家斉に嫁がせたことで徳川家との親密度が上がり、医術や学問も盛んになった薩摩藩ですが、財政がひっ迫して10代藩主斎興が藩政改革をすることで持ち直した頃、西郷は少年から青年期を過ごしました。下級武士の生活は決して楽ではなかったようです。

名君島津斉彬との縁から幕末の渦へ

11歳の頃、友人同士のけんかの仲裁に入った西郷は、右手内側の神経を切ってしまう大怪我を負います。一命はとりとめますが、刀が握れないために武道の道をあきらめ学問の道を進み郡奉行所に勤め、20歳になる頃、「郷中教育」のリーダー的立場となりますが、島津家のお家騒動が起きてきます。
10代目藩主・斉興は、重豪の影響を受けて育った長男斉彬が、オランダの技術と学問に熱心なのに対し、日ごろから眉を顰めていたのです。長男を煙たがる夫を見た側めのお由羅は、我が子久光を次期藩主にしようと画策し、それに対抗した斉彬を支持する家臣たちが、お由羅と久光の暗殺を企てるというのが、お家騒動(お由羅騒動)なのですが、実は斉彬と久光はとても仲の良い兄弟で、騒動は本人たち抜きの外野合戦でした。
暗殺の企てが漏洩したことから、首謀者である赤山靭負をはじめ13名が切腹し、連座した50名ほどが遠島、謹慎という処分を受けていきます。
この出来事から赤山と親しかった西郷は、斉彬の就任を強く願い、反面久光に対しては敵意を抱き、後々まで響きます。幕府老中・阿部正弘の協力で、斉興が隠居することで斉彬藩主となり、お家騒動は収まり、西郷自身は地元の豪族である伊集院須賀と結婚しました。結婚してすぐに祖父、父。母と身内が続けて亡くなり、7人の兄弟の長男として家計を支える立場になりますが、1854年(安政元年)斉彬が江戸参勤するにあたり、西郷は江戸詰に任ぜられます。

ペリー来航以来、開国をめぐり揺れる日本の中心であった江戸で、思想家の橋本佐内や、学者藤田東湖と縁ができたのもこの頃で、当代一の開明派大名と名高い斉彬から直接教えを受け、彼の「御庭方役」となることで、西郷はあらゆる人に会えるようになっていきます。自由に華々しく良き刺激を受けてもいましたが、里では新妻の須賀は困窮し、実家である伊集院家が見かねて彼女を呼び戻し、離婚に至っていること。

その後は次男吉二郎が幼い兄弟を養い西郷家を切り盛りするなど、足元は苦しい現実がありました。一ツ橋慶喜を14代将軍に据えることで、公武合体を図り、開国による富国強兵を進め、諸外国に対抗できる日本を作り上げるという構想が斉彬の頭の中にはあり、その意図を組んで西郷は働き、斉彬の従弟であり養女の篤姫は13代徳川家定に嫁ぎます。
斉彬の意思はわかるものの、調子のよい慶喜がどうにも信用できない篤姫は、家定の臨終に際して、利発な家茂を14代将軍に据えていきます。家茂を押していた大老井伊直弼は、安政の大獄を断行。慶喜についていた斉彬や徳川斉昭に対し、江戸城への登城を禁じ、その処置に
怒った斉彬は抗議のため挙兵の準備を始めますが、ここで急死してしまいます。原因はコレラと言われていますが、あまりに急なので暗殺説を唱える人もいます。海外への造詣が深い斉彬の死は、多くの人に影響を与えましたが、西郷のショックは相当のもので、後追い自殺を図ろうとします。
そしてここからは先に述べた履歴の人生が始まるのですが、大久保利通と、薩長連合をまとめる際に実務能力を発揮した薩摩藩家老小松帯刀の2人は常に島津久光と西郷の仲を取り持っていました。

勝海舟との出会いは第一次長州征伐の頃で、まだ薩摩藩が幕府側についていた頃です。第二次長州征伐を行う幕府と意見対立をするところから、坂本龍馬の介入もあり、薩長連合が組まれてゆきます。そして1867年11月9日(慶応3年10月14日)計算外に徳川慶喜があっさりとした大政奉還をしたことから、事態は大きく動き1868年1月3日(慶応3年12月9日)。
西郷が率いる薩摩軍が御所の宮門を警護する中で、王政復古の大号令が発令されて政権は正式に朝廷に移りました。徳川家を賊軍としての戊辰戦争が始まり、江戸城総攻撃を新政府軍は目指しますが、斉彬がその成長を楽しみにした篤姫。明治天皇の伯母である和宮が徳川家の存続を求めていること。英国公使パークスの圧力(薩摩藩は生麦事件から薩英戦争を経てイギリスと交易を始めています)もあり、西郷は堅い信頼を結んだ勝海舟と話し合い、1868年5月3日(慶応4年4月11日)江戸城無血開城を迎えます。

廃藩置県 新時代の到来は武士の形を変えてゆく。
元号も明治にかわり、明治天皇が御所から東京城に拠点を移したことで、首都は東京となったものの国内のまとまりはつかない状態でした。新政府の基盤はまだ弱く、廃刀令も議会にあがるものの進まない中、薩摩に帰っていた西郷は三番目の弟西郷従道に説得され、故郷から東京に呼ばれます。
新政府にとって成し遂げなければいけない大政策が、全国各地に存在する大名から、土地と人民を朝廷へ返還させる廃藩置県。何百年も培ってきた制度を根幹から変える難事業を、どう納得させ成功させるかをめぐり、木戸孝允と大久保利通たちの間で激論が起きます。これは逸話でもありますが、彼らの論争を静かに聞いていた西郷はこう言います。
「貴殿らの間で廃藩実施についての事務的な手順がついているのなら、その後のことは、おいが引き受けもす。もし、暴動など起これば、おいが全て鎮圧しもす。貴殿らはご心配なくやって下され」
この西郷の言葉が議論を決定づけ、1871年7月14日、廃藩置県を実施。これには各大名は当然怒りましたが、西郷が新設した御親兵によって、特に大きな混乱や騒動もなく収まったようです。
そして、この年は江戸時代に締結された日米修好通商条約(1854年3月)を、より平等な内容に改正するための交渉と、西洋文化の視察のため、岩倉具視を全権大使とする100名超えの岩倉使節団が、横浜を出港しています。この間日本政府の留守を頼まれた西郷は、下記の政策を打ち立てていきます。
*各県に府県裁判所を設置
*陸軍、海軍省の設置
*徴兵令の布告
*地租改正の布告
*学制の発布
*人身売買禁止令の発布
*散髪廃刀の自由、切り捨て・仇討ちの禁止
*キリスト教の解禁
*太陽暦の採用
*華士族と平民の結婚許可
(資料からのアップ)

今までは年貢(今でいう税金)を米で納めていました。しかし、米だとその年の出来高に左右される上、地域のばらつきも出ます。これを平準化し税収の安定を図る意味でも、お金で納税することを考え、取り決めたのが地租改正です。
米からお金への意識転換ともいえる改革は、1871年2月15日に田畑勝手許可という、
農家が田畑で自由に作物を作っていいことを認めることから始まります。
太陽暦の導入は1873年(明治6年)になりますが、戦国時代キリシタンによって既に入ってはいました。江戸時代でも蘭学者の中には使う方もいたようで、明治になって海外との交易や文化交流をするにあたって一般化です。これらは政策として打ち立てられたものですが、今の時代の下地になってるものもありますね。

征韓論と西南戦争

そして、もう一つの難問が、当時関係が悪化していた朝鮮への対応協議でした。明治六年の政変。「征韓論」の方が一般的には耳にしているし、これが元で西郷は鹿児島に帰り、西南戦争も起きてきます。
明治新政府は朝鮮に対し、日本は政権に代わった旨を伝える使節を派遣します。しかし、書簡を渡しても内容に不備ありとして、受け取りを拒否され続けました。これは当時の朝鮮で政権を掌握した興宣大院君(こうせんだいいんくん)が儒教の復興と、攘夷の政策を採り始めた事情の為ですが、礼を尽くし交渉を続ける明治政府に対し、朝鮮側の対応が非礼続きだったことから、武力行使も厭わない「征韓論」が出てきたのでした。新政府から留守を預かっていた西郷は、まず自らが全権大使として朝鮮へ赴き、その交渉が決裂した場合は、朝鮮と戦争をするということで意見をまとめます。

板垣退助ら武力ありきの征韓論者達も、江戸城無血開城に導いた西郷の言葉に賛同し、全権大使の役を西郷に快く譲ります。
しかし、帰国してきた岩倉具視や大久保利通らは、征韓論に反対します。西郷を派遣して説得に失敗し、殺害されることになれば日本は朝鮮と戦争をせざるをえなくなること。それは日本の内政状況と国際情勢を見ても、何も利することがないという理由で反対するのですが、征韓論側は収まりません。最終的に明治天皇が下したのは、西郷隆盛の派遣を無期限延期でした。
1873年(明治6年)西郷隆盛を筆頭に、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣の5人は明治政府に辞表を提出し下野します。また、征韓論を支持する官僚・軍人や、板垣・後藤に近い官僚・軍人も辞職し、その数600名に上る大掛かりな辞職騒動となりました。
新政府樹立に貢献したのに、打ち出す政策により苗字が一般化し、廃刀令をはじめ、徴兵に至るまで武士である必要がなくなり、自分たちの特権を奪われてゆくことに不満を募らせた士族たちが、日本各地で反乱を起こす中、西郷は故郷へ戻ってゆきました。

そして、彼を慕う血気盛んな薩摩藩出身の士族たちは、家族と静かに暮らす西郷の元に、集まり出したのです。西郷は彼らのために私学校を設立し教育を提供しましたが、新政府は政府に不満を募らせる士族たちが、彼のもとに集まることに警戒心を強めます。
1877年(明治10年)1月20日(頃)。ついに私学校の士族たちが政府の火薬庫を襲う事件が発生したのです。知らせを受けた西郷は「しまった!なんちゅうこっを…」と言ったと伝えられています。
もともと政府と戦争などする気などない西郷でしたが、若者の士族たちの気持ちを尊重して、政府と戦うために出兵することを決めたのでした。これが日本最大の内戦といわれる西南戦争の内訳であり、この戦いで西郷は49歳の人生の幕を故郷城山で閉じます。西郷の死を聞いた明治天皇は「西郷を殺せとは言わなかった」と嘆き、新政府軍の指揮官となった大久保利通は号泣したそうです。

1852年(嘉永5年)から884年(明治17年)はじめと終わりを告げるまで冥王星は、おうし座にあり、海王星も1875年おうし座に入っています。革命の星天王星は、おうし座の後半からふたご座、西南戦争の頃はしし座の終わりに差しかかっていました。大きく時代が変わったあの時代、外枠の星々は、運命的な変革にふさわしい位置にあり、当時を生きる人たちの運勢の支えとなっていた感じもします。
運勢の強さゆえに翻弄もさた西郷ですが、みずがめ座の太陽を片支えするやぎ座の水星と天王星と、対峙するかに座の土星は、リアリストでありながら、ものごとの転換をはかるのに時間の必要な性質を、彼に持たせたのかもしれません。
こうと決めれば重石のように決めてゆく姿が、多くの人に安心感を与えた西郷隆盛は、今の日本の根幹となる部分を築いてくれたかけがえのない日本人の一人です。