みなさまこんにちは。占い職人 緑川連理です。
幕末といえばざっと160年前。新選組や坂本龍馬ファンも多いし、今年は大河ドラマの影響で西郷隆盛を連想される方も多いと思いますが、遠いようでいて、今も影響を与える大転換の時代から、毎回一人ずつ(カップルは二人)星座と惑星を重ねてその生き方を見ていきます。第一回目は時代の転機を切り抜けた日本のプリンセス和宮にスポットを当てました。

幕末より少しさかのぼる1846年(弘化3年)。ベルリン天文台のヨハン・ゴットフリート・ガレとハインリヒ・イルス・ダレスの二人によって海王星が発見され、アメリカが日本に通常条約を求めた年。そして、孝明天皇の即位の年でもあり、7月3日(弘化3年閏5月10日)。京都御所に隣接する橋本家に仁孝天皇(第120代)の第八皇女が生まれます。
母親は側室橋本経子。誕生に先立ち父・仁孝天皇が崩御しているため、父の顔を知らない皇女は異母兄の孝明天皇から和宮という名を賜り、勅命により橋本邸で養育されます。

彼女の略歴を並べると、
1851年(嘉永4年)孝明天皇の命により有栖川宮熾仁親王と婚約。
1861年(文久元年)政情事情に翻弄され第十四代将軍徳川家茂の正室として降嫁。
1864年(元治元年)夫家茂の病死。落飾し静寛院宮を名乗る。
1868年(慶応4年)江戸城無血開城。
1869年(明治2年)1月に上洛1874年(明治7年)東京へ戻る。
1877年(明治10年)9月2日 脚気衝心のため32歳の若さで薨去。

1858年(安政5年)、勅許を得ずに日米修好通商条約を結ぶ幕府に怒った孝明天皇は、密勅を水戸藩に下し幕府に攘夷を進めます。しかし、大老に就任した井伊直弼の指導する幕府は、尊王攘夷を唱える志士や大名・公家を捕らえ投獄し、安政の大獄が始まってし行きます。
朝廷と幕府の軋轢だけでなく、開港を迫る海外と幕府の狭間で、13代徳川家定は8月24日(安政5年7月6日)死去(享年34歳)し、当時12歳のまだ幼さの残る徳川家茂が14代将軍の座に決まります。
植民地を拡張するために開国を迫る外国勢と渡り合うためには、緊張関係にある朝幕関係の修復こそが必要とする公武合体派は、対策の一環として御台所に皇女の降下を画策し、皇女和宮の降下が立案されたのです。
すでに決められた婚約を破断させられた上、京都から出て江戸に赴き将軍家に嫁ぐ。和宮にとって超絶ショッキングな話で、かなり硬く辞退し続けますが、孝明天皇の皇女は生まれたばかり。家茂と同い年の和宮以外、適齢な候補者がいないのです。
「父・仁孝天皇の十七回忌の後に下向し、以後も回忌ごとに上洛させること」
「大奥に入っても万事は御所の流儀を守る事」
「御所の女官をお側付きとする」
「御用の際には伯父・橋本実麗を下向させること」
「御用の際には上臈か御年寄を上洛させること」
拒み続けた末、1859年9月29日(安政6年8月15日)。和宮は五か条を元に降嫁を承諾し、1861年11月(万延2年)。孝明天皇より内親王宣下を受けた和宮は、安全対策のため、ひそやかに中山道をかごで進み、江戸城本丸大奥へと入ります。

1862年3月11日(文久2年月11日)徳川家茂と和宮の婚礼の儀が執り行われますが、和宮は内親王。征夷大将軍より位が高いため、嫁入りした和宮が主人。
家茂が客人という立場で結婚の儀が進むことに、武家社会一色だった13代将軍家定の正室天璋院篤姫をはじめ、大奥と江戸城内の人々はカルチャーショックを受けてしまいます。この結婚の儀の後、御所と武家社会の生活の違いも併せて、いろいろと尾を引く形になり、周りの和宮へ対する態度も硬化させます。

「大奥に入っても万事は御所の流儀を守る事」をはじめ、明春の仁孝天皇の年回忌のための上洛も、「和宮や女官たちが江戸での暮しに慣れていないから」との理由で延期を要請されます。約束がなかなか守られない環境の中、結婚生活を維持できたのは、彼女が負けず嫌いな性質だというのもありますが、夫である家茂と、ものすごく気持ちが通じ合ったことが記録からもうかがえます。
20歳の若さで夫を失う和宮は、後に確執のあった姑天璋院篤姫とともに、江戸城を無血開城へと導いてゆく道を歩みます。
江戸から明治に歴史の主人公が変わる時、徳川家の存続を願った彼女はどんな性格な人だったのでしょうか。夫となる家茂とはどんな仲だったのか。彼女の足跡を支えた星を少しお話したいと思います。

誕生時間がはっきりしないため、12時を起点にホロスコープを作りました。
第1ハウス 本人の部屋   てんびん座 月・ノード
第2ハウス 金銭所有の部屋 さそり座   
第3ハウス 幼年期の部屋  いて座    
第4ハウス 家庭の部屋   やぎ座  
第5ハウス 喜びの部屋   みずがめ座 海王・土星
第6ハウス 健康勤務の部屋 うお座 
第7ハウス 契約の部屋   おひつじ座 天王星・冥王星
第8ハウス 生と死の部屋  おうし座  金星・木星
第9ハウス 精神の部屋   ふたご座
第10ハウス 社会の部屋   かに座 太陽・水星・火星 
第11ハウス 友人希望の部屋 しし座
第12ハウス 障害の部屋   おとめ座 

彼女が深夜のうまれだと月サソリの可能性もありますが、てんびん座(第1ハウス)の月とノード。
みずがめ座の海王星&うお座の土星(第5ハウス)。
おうし座(第8ハウス)の金星・木星。
かに座(第10ハウス)水星と火星のコンジャンクション。
月は海王星と土星(第5ハウス)と協調し、かに座の水星(第10ハウス)と緊張角度。
おひつじ座(第7ハウス)の冥王星はオポジション。
木星は火星と相性がいいものの、土星とは金星と同様の緊張角度。
彼女が重い背景を持つ家の生まれであると同時に結婚の困難の相を持つこと。
良いものを授受できる反面、対人関係がどこか安定しないのがうかがえます。
風星座と水星座のコンボが良く、土星座の性質はなく何事にも軽やかで頭もいいです。
お姫様だからおとなしい……。そんなイメージで見ていたら、裏をかかれそうな芯の強いものを秘めています。
夫になる14代将軍家茂(紀州徳川家)は、1864年7月17日生まれ。
多くの幕臣にその将来を期待される頭脳と性格の持ち主でした。

第1ハウス 本人の部屋   てんびん座  node
第2ハウス 金銭所有の部屋 さそり座
第3ハウス 幼年期の部屋  いて座
第4ハウス 家庭の部屋   やぎ座
第5ハウス 喜びの部屋   うお座 海王星 土星
第6ハウス 健康勤務の部屋 うお座 天王星
第7ハウス 契約の部屋   おひつじ座 冥王星・月
第8ハウス 生と死の部屋  おうし座 木星・金星
第9ハウス 精神の部屋   ふたご座 太陽
第10ハウス 社会の部屋   かに座 火星・水星
第11ハウス 友人希望の部屋 おとめ座
第12ハウス 障害の部屋   おとめ座

和宮と同じくかに座が太陽星座。
月おうし座(12時設定で13度なのでおうし座確定)。
同い年で誕生日も近いので、太陽・月・水星以外はコンジャンクション多く、和宮の月と冥王星はオポジション。
家茂の月と和宮の太陽はふるゆわ60度。
星の力が功を奏するのか、大人の事情で将軍となった家茂と無理やり江戸に嫁がされた和宮とは意気投合。
家茂はこれまでの将軍家の慣習をやぶり、側室を持たず和宮だけを妻としたのです。

しかし、仲の良い夫婦の時間は長くは続かず、1865年8月29日(慶応元年7月20日)家茂が大阪で急死(21歳)。和宮とともに江戸に下向し大奥に住まっていた母・観行院も卒去。
1866年1月30日(慶応2年12月25日)孝明天皇が崩御と、夫だけでなく、母と兄を立て続けに失う和宮は落飾し静寛院宮を名乗ります。甥の明治天皇が践祚し、15代将軍は家茂の遺言通りなら田安亀之助でしたが、不安定な時世にあまりにも幼い将軍ではと、後継人を立てることを和宮は承諾します。
この後継人として将軍徳川慶喜が選ばれますが攘夷を即す書状を何度も出しても、黙殺を続ける慶喜に、和宮は不信感を募らせてゆきます。
やがて、王政復古の大号令を発した薩長連合は、慶喜には辞官と領地の返上を求めると同時に、和宮を京都に迎えるため公卿を江戸に派遣する旨を布告。鳥羽伏見の戦いが始まります。大阪から咸臨丸で逃げてくる慶喜は天璋院篤姫のとりなしを受けて和宮へ謁見。これまでの非礼を詫びる謝罪のみ受け取った和宮は、篤姫もまた慶喜への不信感を募らせていることを知ります。

篤姫は 家定への思いがあり、和宮は家茂への思いがあり、ともに徳川家の存続を願う。だけど徳川慶喜は嫌い。この共通認識が反目していた嫁姑を一致させてゆきます。
朝廷では徳川征討を主張する西郷隆盛ら薩摩藩と、外国の干渉を懸念して徳川家への寛大な処分を唱える岩倉具視らが対立したため、篤姫と和宮は、事態の沈静化のためにどちらも使者を朝廷に派遣しますが、江戸城を落とす東征大総督としてかつて和宮の許嫁だった有栖川宮熾仁親王が上がってきます。

1868年(慶応4年)天王星がかに座を航行するこの年。和宮の太陽の真上に天王星はエネルギッシュな輝きを放ち、かに座の持つ身の回りの人を大切に思う気持ちとものすごくリンクしていたのでしょう。おひつじ座には進行中の太陽と海王星があり、和宮の契約の部屋にある天王星と冥王星を明るくしています。
火星しし座の強さもさることながら、ネイタルと進行中の星々が、絶妙に絡むのを見ると星の効果もかなりあったのではと感じます。

江戸城明け渡しの立役者は西郷隆盛と勝海舟ですが、水面下では篤姫と和宮をはじめ、実に多くの人たちが動きました。何があっても江戸城を落とす勢いの西郷隆盛と面会に赴いた旗本、山岡鉄舟は、勝海舟のしたためた手紙を彼に渡します。
「慶喜の恭順の意を解さぬ士民が決起した場合、こちらには統御の術が無く、和宮様の尊位は保ちがたい」
自身が敬愛する亡き藩主島津斉彬が目をかけた篤姫と、夫亡き後も京都に帰ることなく、江戸城にとどまる皇女和宮。
この二人の女性が、自分たちが倒そうとしている徳川家存続のために尽力をつくしていることを知った西郷は、新政府軍による江戸城攻撃を断念する方向にかじを切らざるを得なかったのでした。

1869年(明治2年)1月18日、公人としての務めを果たすため念願の京都へ帰り、しばらく暮らしますが、甥である明治天皇などのすすめもあり、1874年7月東京に戻ります。今の港区六本木に住み、皇族をはじめ天璋院・徳川家の人々と幅広い交流を持ち、篤姫と勝海舟宅に遊びに行ったり、嫁いだ当初からは考えられない楽しい時間を過ごします。

ようやく落ち着いた日々を送れるようになるのですが、脚気を患うことから1877年(明治10年)8月。元奥医師の遠田澄庵の転地療養の勧められた箱根塔ノ沢温泉で薨去しています。32歳の若さで逝かれたことを天璋院は惜しみ、政府は皇家の方なので葬儀を神式で行う予定でしたが、和宮の「家茂の側に葬って欲しい」との遺言を尊重し、最後の最後まで家茂の妻としてありたいと願う和宮のために葬儀は仏式にて行い、墓所は家茂が眠る東京都港区の増上寺となりました。今も増上寺に行けば、和宮のお墓があります。

自らの意志ではない事情で婚約させられ、武家に嫁ぐために先の婚約を破棄させられ、まったくなじみのない江戸で暮らすことを承諾させられた和宮ですが、大きな歴史の歯車が変わる中枢で、夫家茂と出会いひかれ合い、わずか4年の結婚生活で先だった夫の家である徳川家と、宮家のつながりが切れないように自らの意志で奔走した姿は、人に翻弄されただけの女性ではなく、江戸の町を戦火から救い近代日本を支える敷石となっていると思います。